90話 昏き声の誘い③
「サフィナさん、こんな豪華な宿に泊まっていたんですねぇ」
おっとりとした声で部屋を見回すオズの様子に、サフィナは思わず肩の力を抜いたように微笑んだ。
砂漠を歩き通したせいか、彼の顔は心なしか日に焼け、いつもより健康そうに見える。いや、実際にオズは常に健康なのだ。ただその青白く覇気のない雰囲気が病弱に見せているせいで、サフィナは彼のことがいつも気がかりで仕方がない。
渓谷で別れたあと、冒険者として鍛えられたリヒトたちと行動を共にできるのか心配していた。けれど、こうして元気な姿を見せてくれたのだから、きっと彼は彼なりに役目を果たしたのだろう。
「オズさんたちは、私たちより早くフェニアに入ったんですよね? 今までどちらに?」
問いかけると、庶民区にある宿のひと部屋で、男性陣はひとまとめにされていたことを教えてくれた。
それから、つい先ほど起こった出来事も。主に留守番を言いつけられたときから、また何かを企んでいるのでは――と思ってはいたが、まさかそんなことになっていようとは。
ルナリスは今、蒸し風呂で汗を流している。先程グレイスが入って行ったので、そろそろ交代して出てくる頃だろう。
戻ってきたら、お小言のひとつくらいは言わなくては。あまり無茶をしないように、と。
「そういえば……欠片を入れた小箱は無事ですか?」
サフィナの問いに、オズは「あっ」と声を漏らしてから鞄を探り、掌に収まる箱を取り出した。
「もちろん無事ですよ。今日は……サフィナさんに魔力を流してもらってもいいですか?」
人が持つ魔力量には個人差がある。サフィナはオズよりはるかに多くの魔力を持っているため、別行動になるまでは主に彼女が欠片の封印を担っていた。
魔力の少ないオズは、箱に触れるだけで疲弊してしまい、そのまま眠ってしまうこともある。だからこそ一日の終わりの作業と決めていたのだ。今日からまたサフィナに頼れると分かって、オズは露骨に安堵の色を見せた。
小箱を受け取ろうとしたとき、タイミングを測ったかのようにルナリスが部屋へ戻ってきた。
わずかに肌を上気させ、吐息を細める姿は、同性のサフィナから見ても息を呑むほどに美しい。つい目を奪われてしまった。
視線を横にずらすと、オズが鼻の下を伸ばしているのに気づいた。途端にむっとして、彼の膝をつねる。
「オズさんのエッチ」
「え、えぇっ!? サフィナさんだって見惚れてましたよね!?」
「私はいいんです。ルナリス様の侍女だから」
ぷいと顔を背けてやりとりを打ち切ったそのとき、部屋の隅で丸くなっていた黒狼が突然立ち上がり、音もなく駆け出していった。その背を追うように、ルナリスもすぐさま飛び出していく。
一瞬追いかけようかと思ったが、彼女の表情がどこか嬉しげに見えて、サフィナは足を止めた。
(きっと、殿下がいらしたのね)
婚約者との久々の再会だ。邪魔をしてはならないと胸の内で言い聞かせる。
それからすぐにザヒールがやって来た。少年は煌びやかな部屋の雰囲気に慣れないのか、そわそわした様子で身なりを整えている。
サフィナはしばらくオズと他愛ない会話を楽しんでいたが、待てどもルナリスは戻ってこない。
(迎えにいったほうがいいかな……殿下とベルさんが帰ってこないのも気になるし)
ふと考えていると、
「サフィナさん、そろそろ――」
オズに声をかけられ、サフィナははっとした。視線の先で、オズが小箱を示している。魔力を注ぐ時間だと、言外に促されていた。
主のことが気にかかるが、まずはこの作業を終わらせなければ。その後に、彼女を迎えに行こう。
サフィナはそう思いながら頷くと、小箱を手に取った。
深呼吸をして集中を高める。そして、静かに魔力を流し込んだ。
その瞬間――ぶわり、と黒い靄が噴き上がった。
「きゃあっ!」
カラン、と音を立てて小箱が床に転がる。靄は渦を巻いて膨れ上がり、瞬く間に部屋全体を覆い尽くした。その場にいた誰もが声を失い、ただ飲み込まれる。
けれどそれも一瞬のこと。黒い影はすぐに霧散し、跡形もなく掻き消えた。
残されたのは、床に倒れ込むサフィナたちと、空っぽになった魔道具の箱だけだった。
時を僅かに遡り、庶民区の宿を後にしたリヒトたちは、ルナリスたちが滞在する青の雫亭へと歩を進めていた。
リヒトはザヒールと談笑しながら並んで歩き、その背を見つめながらベルが後に続く。
ベルの胸の内は、静かに揺れていた。
このまま青の雫亭へ向かえば、ルナリスと合流することになる。
けれどその前に、どうしてもリヒトと二人きりで話をしたかった。
――そろそろ、楽になってもいいんじゃない?
グレイスの言葉が、ふと頭をよぎる。
ベル自身も、このままでいいとは思っていない。ただ、一歩を踏み出すのが怖かった。
やがて宿の前へ辿り着く。リヒトは嬉しそうに中へ入ろうとするが、その腕をベルが思わず掴んだ。
婚約者を目前にしてか、彼はどこかそわそわしていた。それでも、振り払うことなく首を傾げる。
「どうした?」
優しい緑の瞳が細められる。
「ザヒール……先に、宿へ入っていて」
ベルは小さく呟くと、リヒトの腕を掴んだまま、オアシスへと続く小道へ足を向けた。
「ベル、どこへ――」
「いいから、来て」
困惑しながらも、リヒトはそのまま彼女に連れられていく。
夜のオアシスは、恋人たちの憩いの場だと聞いていた。だが今夜は、街で騒動があったせいか人影はなく、静寂が辺りを包んでいる。
穏やかに揺れる水面を並んで見つめていると、どこからか風を切るような足音が聞こえた。
振り返る間もなく現れたのは、リヒトの相棒である狼。黒い毛並みの巨体が駆け寄り、勢いよく彼に飛びついた。
「くすぐったいよ、ゼファー!」
顔を丸ごと舐められ、リヒトが楽しそうに笑う。狼はしばらく再会を喜ぶようにじゃれつくと、やがて満足げに水辺の方へ駆けていった。
「しょうがないやつだな」
呟くその声は、どこまでも穏やかで優しい。
その横顔を、ベルはただ見つめていた。胸の奥に、どうしようもない想いが込み上げる。
ふと、彼がこちらの視線に気づき、振り返った。
目が合った瞬間、抑えきれずに言葉が零れる。
「……すき」
「え――?」
気づけば、ベルは彼の胸へ飛び込んでいた。
「好きなの……リヒト」
背に回した腕に、ぎゅっと力を込める。
彼の表情は見えなかった。近くで聞こえる鼓動が、彼の戸惑いを伝えてくる。
しかしどれだけ待っても、彼の腕がベルを抱きしめ返すことはなかった。
「ごめん……」
肩に置かれた手が、そっと体を押すように離す。
涼やかな夜風が、二人のあいだをすり抜けていった。
答えなんて、分かりきっていた。それでも止められなかった。
いまもなお、心のどこかで僅かな希望を探してしまう。
「……あたしじゃ、だめ?」震える声で問いかける。
「あたし、ずっとリヒトが好きだった。あの人との婚約が決まる前から、ずっと……。あたしとあの人の、何が違うの……?」
食い下がる自分が、情けなかった。
唇を噛みしめ、視線を落とす。
「ベル……」
顔を上げると、リヒトは真っ直ぐに見返してくれていた。
「ごめん。君がそんなふうに想ってくれていたなんて、全然気づけなかった」
真摯な眼差しだった。突然の告白にも、彼は誠実に向き合おうとしている。
「正直、めちゃくちゃ驚いたけど……嬉しいよ。君は素敵な女性だから」
ベルは、息を呑んだ。
「でも、違うんだ。君は大切な仲間であって……俺にとっては、可愛い妹みたいなものだったから」
「素敵な女性なのに……あたしは、運命の人にはなれないんだ」
そう呟いたベルに、リヒトは静かに首を振った。
「ルナリスは、そうだな――俺の運命そのものなんだよ」
そう言って微笑むリヒトを見て、ベルは悟った。
敵わない、と。
彼はそれほどまでに、ルナリスを想っている。
「愛してるんだ、彼女を」
はっきりと告げられた言葉に、胸が痛んだ。
けれど、誤魔化さず、真実を伝えてくれたことが嬉しかった。
ベルは涙を拭い、無理やり笑顔を作る。
笑っていなければ、涙が止まらなくなりそうだから。
「わかった。そこまでハッキリ言われたら、諦めるしかないじゃない」
そして、わざと明るい声で言う。
「でも! こーんな可愛い子をふって、そのうち後悔しても遅いんだからね!」
リヒトは一瞬きょとんとしたあと、喉の奥で笑った。
――そのとき。
オアシスに面した宿の一角から、悲鳴が微かに響いてきた。
二人が反射的に振り返る。
視線の先で、不吉な黒い靄が渦を巻くように膨れ上がり、そして跡形もなく消えていった。




