89話 昏き声の誘い②
リヒトの到着を待つ間、ルナリスたちはそれぞれ思い思いに休息を取っていた。
ソファにだらしなく寝そべるティオ。蒸し風呂に籠もり、戦いの疲れを癒やすグレイス。ラセルをはじめとする騎士たちは、無言で武器や防具の手入れに没頭している。
その片隅では、サフィナとオズが膝を突き合わせ、掌ほどの小箱を挟んで何やら話し込んでいた。
(色々ありすぎて、欠片のことをすっかり忘れていたわ……)
ルナリスはふと思い出す。
核の欠片。昏い歌声を放つ、忌まわしき破片。
渓谷で別れて以来、オズはずっとその管理を続けてくれていたのだろう。あれから不気味なざわめきは一切聞こえることなく、ルナリスは胸の奥でほっと息をついた。
そのとき、ふいにゼファーが鼻先を震わせ、しきりに耳を動かした。そして音もなく、軽やかな足取りで部屋を飛び出す。
「ゼファー?」
狼は警戒の様子を見せなかった。もしかすると、リヒトが来たのかもしれない。
ルナリスも慌てて立ち上がり、そのあとを追う。宿の入口に出たところで、ばったりザヒールと鉢合わせた。
「ザヒール? 一人で来たの?」
少年は風のように走り抜けていった狼を見送ると、手にした荷物を抱えなおした。ゼファーに驚いて、落としてしまったようだ。
「リヒトさんなら……ベルさんが、話があるって。それで、ぼくをここまで送ったあと、ふたりで……」
細い指が差し示したのは、宿からもよく見えるオアシスのほとり。青の雫亭の目と鼻の先だ。ゼファーもまた、そちらへ駆けていったのだろう。
胸の奥に、言いようのないざわめきが広がる。
ルナリスはザヒールを宿へ入れると、自分はそっと二人のあとを追った。
夜のオアシスは、昼間とはまるで別の顔を見せる。
街の灯火を映し出す水面は、星をばらまいたかのように煌めき、光の粒が波間に踊っている。砂漠を渡る風が水面をすべり抜けて、心地よい涼しさを運ぶ。
闇に包まれた静けさの中、時折響くのは椰子の葉音だけ。その響きは、落ち着きを与えるどころか、むしろルナリスの心を晒したかのようにざわざわと揺れていた。
ルナリスは、木の陰に身を寄せオアシスを覗いた。
水辺には、はしゃいで走り回るゼファー。その姿を眺めながら、二人の男女が並んで立っている。声までは届かないが、互いに言葉を交わしている。
見てはいけない。
頭で分かっていても、目が離せなかった。
羽織ったストールを無意識に握りしめる。心臓の鼓動が早まって、息苦しさを感じる。
リヒトを信じている。信じているけれど――。
とびきり愛らしい少女が自分に想いを寄せていると知って、悪い気を抱かない男性などいるだろうか。もしその少女が一歩、いや二歩も踏み込んできたら、彼はどう応えるのだろう。
視線の先で、リヒトは穏やかな眼差しを浮かべていた。相棒の無邪気な姿を見守るような表情。その肩に、ふいにベルが身を寄せる。
細い腕が、彼の背を抱きしめた。
(あ……)
胸が軋む。
きっと今、あの少女は自分の想いを伝えているのだ。
勇気を振り絞った彼女の決意を、なぜ自分はこんなふうに盗み見ているのか。
浅ましい嫉妬に駆られた自分を、心のどこかで軽蔑しながら――それでもなお、胸の痛みは膨らんでいく。
ルナリスは逃げるように駆け出した。
どこでもいい、とにかくここから離れたかった。
ふいに、声が響く。
頭の内側に直接囁くように、低く、昏く。
『……浅マシイ女ダ。欲ニ狂イ、嫉妬ニ狂イ、次ハ何ニ?』
「ちがう……違うっ!」
まるで、心の弱さをなぞるような囁きに、ルナリスは耳を塞いだ。
しかし声は止まらない。無我夢中で走り続ける彼女を追い立てるように、頭の中をかき乱す。
『我ニ身ヲ委ネヨ。サスレバ、望ミハ全テ叶ウ。アノ男ヘノ愛モ、邪魔スル者ノ排除モ……何モカモ』
「やめてぇ!」
砂に足を取られ、ドサリと倒れ込む。そこが街の外れであることすら、もう分からなかった。
か細い身体が、ゆらりと立ち上がる。瞳は焦点を結ばぬまま、覚束ない足取りで歩き出した。
「……カエリタイ」
掠れた声が、砂漠の夜に消える。
ルナリスは北へと向かい、ふらりと進んでいった。




