88話 昏き声の誘い①
ムザが取引に応じ、ザヒールの身の安全が確保されたことで、一夜の騒動はひとまずの幕を下ろした。
逃げるようにその場を後にするムザの背を見送りながら、マシューがぽつりと呟く。
「金輪際、ザヒールへの手出しはしない……そう言っていましたが、本当に信用できるんですかい?」
「ノクティリカとの約束さえ、反故にしていたような男ですよ」
続けたのはアイゼンだ。彼は昼間、使用人たちからムザの悪行を散々耳にしていたため、なおさら信じ切れない様子だった。
赤竜の核の件はもちろん、ムザにとってザヒールが疎ましい理由はほかにもある。この少年が、赤の部族の正統な末裔である――その一点だけで、彼にとっては目の上の瘤なのだ。
だが、これ以上街の内政に踏み込むことはできない。ムザを街長の座から退かせるかどうかは、この街の、ひいてはザルカード王国自身の問題である。
ルナリスは深く息を吐き、ようやく物陰から顔を覗かせたザヒールのもとへ歩み寄った。
少年はリヒトやベルに砂を払ってもらっているところで、ルナリスの気配に気づくと、おずおずと顔を上げた。
「怪我はないみたいね」
微笑むと、ザヒールはやや緊張した面持ちで頷いた。
「あ、ありがとうございます。皆さんも、たくさん助けてもらって……」
深々と頭を下げる少年に、ティオがにかっと笑う。
「気にするなよ。ボクたちは仲間じゃないか」
さりげない一言に、ザヒールの表情はぱっと明るくなる。
その様子を見守っていたルナリスだったが、やがて少年と視線を合わせるように膝を折り、真剣な口ぶりで問いかけた。
「ザヒール。あなたは、これからどうしたい?」
「え……」
大きな瞳が揺れる。
ルナリスは、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「異国の人間である私たちにできるのは、ここまで。けれど……本当の赤の部族であるあなたには、立ち上がる権利がある。ザヒールは、この街を……ムザを、どうしたい?」
「ちょっと! なにも今、そんな話をしなくたっていいじゃない!」
ベルが小さな肩に手を置き、非難の声を上げる。
だが、ルナリスは真っ直ぐに彼女を見返した。
「でも、私たちはここへ留まるわけにはいかないの」
流浪の身として生きてきた少年に、あまりにも唐突な問いであることは、ルナリス自身も理解していた。
しかし、彼らは異国の人間であり、自分たちは果たすべき使命を抱えている。この先ザヒールが「赤の部族」として立ち上がったとしても、側で支え続けてやれる者はいないのだ。
ザヒールは肩に置かれたベルの手をそっと握り返すと、微笑んで首を横に振った。大丈夫、と伝えるために。
「たしかに、ぼくは赤の部族の末裔です。でも、この街のことをぼくは知らない」
その言葉は正直で、偽りのないものだった。
「ムザは……悪いやつかもしれない。でも、焼けた土地をここまで復興させたのも、彼です。いやなことも多い街だけど……この美しさの中には、たくさんの人の想いが詰まっているように思うんです。ぼくは、それを壊したくない」
その言葉どおり、フェニアは確かに美しい街だった。
オアシスの水はどこまでも透き通り、塵ひとつ落ちていない通りには洗練された建物が立ち並ぶ。それは、ムザをはじめとする街の人々が築き守ってきた姿でもある。
ザヒールは小さな拳を握りしめ、決意を宿した声を上げた。
「ぼくは、ぼくにしかできないことをやりたい。それは今、瘴気を消すことで……。誰かのためになるのなら、この力をもっと役立てたい」
たどたどしいながらも、その言葉には力があった。赤の部族の末裔として正当性を示すよりも、ただ「誰かのためになりたい」と、まっすぐに言い切ったのだ。
「それがあなたの決意なのね」
ルナリスは柔らかく微笑んだ。
リヒトも頷き、手を伸ばして少年の頭をわしわしと撫でる。
「それじゃあ、俺たちと行こう」
「はいっ!」
ザヒールの顔に、ようやく年相応の笑顔が咲いた。
今後の方針を話し合うため、リヒトたちは宿を青の雫亭へと移すことになった。
彼らが荷をまとめている間、ルナリスたちは戦いの後処理に追われる。
マシューたちが退けた増援も含め、気を失って倒れていた私設兵を一人残らず診療所へ運び込んだ。治療費もきちんと払い、後腐れのないようにしておく。こちらに非は無いとはいえ、恨みを買って余計な敵を増やしたくはない。
雇い主に見捨てられた兵士たちは、その心遣いに目を丸くし、やがて深く頭を垂れた。
「これに懲りたら、もう悪さしちゃだめよ」
ルナリスの言葉に、彼らはしきりに頷く。しまいには女神でも拝むかのような眼差しで見送られ、ルナリスは頬を赤らめてそそくさと診療所を後にした。
青の雫亭に着くと、入り口ではサフィナが帰りを待っていた。
留守番を命じられていた彼女は、不満げに頬を膨らませながらも、無事な主の姿に安堵の息を吐く。
「おかえりなさいませ、ルナリス様」
「ただいま。リヒトたちはもう来ている?」
ここで改めて合流する手はずとなっていた。
問いかけに、サフィナは珍しく歯切れの悪い声で答える。
「えぇっと、今は……オズさんたちが……」
言葉を濁す理由はすぐに知れた。ルナリスが部屋に戻ると、そこにはオズの他に、ティオとグレイスの姿があった。ということは、リヒトはベルと一緒にいるのだろう。
(ザヒールも一緒だろうし、気を遣わなくていいのに)
胸の奥で、ひっそりと苦笑する。
気にならないといえば嘘になる。けれど、つまらないことで嫉妬する自分を認めたくなかった。リヒトを信じていると口にしたのは、ほかならぬ自分なのだから。
部屋の隅には珍しくゼファーの姿もあった。
これまで人目を避け、オアシスの周辺で涼を取っていた黒狼だが、成り行きで宿まで連れ帰ることになったのだ。
入り口を塞ぐほどの巨体に、宿の主人は初め大いに怯えた。だが、害はないと知るや否や、
「これほど立派な狼が泊まったとあらば、あの部屋にもさらに箔が付きますな」
と、商魂逞しい笑みを浮かべた。
ゼファーは負傷した兵を診療所へ運ぶ際にも大いに助けとなってくれた。
(あとでお礼をしなくちゃね。狼って、なにが好きなのかしら……)
黒々と輝く毛並みに指を滑らせながら、ルナリスはそんなことを考える。
答えは、リヒトに聞けばきっとわかるだろう。




