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異世界転生したら、弟が婚約者になりました  作者: くなぎ八重
第二章 赤き竜とオアシスの街
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87話   騒動④


 戦場へ姿を現したルナリスに、ムザは狼狽のあまり足をもつれさせた。

 

「や、やめろ! お前たち!」

 

 必死の叫びも虚しく、戦いに血を上らせた兵たちの耳には届かない。それどころか、新たな獲物を見つけたかのように、彼女たちへと刃を向ける者さえいた。

 迫り来る男たちを前に、ルナリスは毅然とした表情を崩さない。彼らが自分に指一本触れられないことを、彼女は確信していたからだ。

 突如大きな黒い影が壁を蹴り、砂塵を巻き上げながら降り立った。ルナリスを守るように立ちはだかったのは、黄金の瞳を宿す獣、黒狼ゼファーである。

 思わぬ姿に、リヒトは目を見開いた。あの相棒が、街中で人前に姿を現すことなど一度もなかった。

 別れ際に交わした「ルナリスを守ってくれ」という願いを、彼は忠実に果たそうとしているのだ。

 黒狼が鋭い牙を見せて低く吠えると、兵たちは一斉に青ざめ、恐れに駆られて後ずさる。砂漠に生きる彼らにとって、ゼファーのような獰猛な狼を目にするのは初めてのことだった。

 腰を抜かしたムザは尻餅をつき、兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ散っていく。雇い主を最後まで守ろうとする者は、一人もいなかった。

 夜風が、戦場の熱気を瞬く間に奪っていく。その場に残ったのは、ムザとルナリスたち、そして気を失って倒れている兵の姿だけとなった。

 ルナリスは砂を踏みしめ、崩れ落ちる男の前へ歩み寄る。そして冷ややかな視線で見下ろし、凛とした声を放った。

 

「私は言ったはずですよ。“手荒なことは望んでいない”と」


 ひれ伏すムザがちらりと顔を上げると、狼の鼻先が自分へ向けられており、慌てて額を地に擦りつけた。

 

「も、申し訳ございません! しかし、この不届き者どもが、子供を――」

「あら。私の“影”を、不届き者と呼ぶのね」

「……へっ?」

 

 ルナリスの言葉に、ムザは間の抜けた声を漏らした。

 手駒扱いされたベルが思わず不満の声を上げかけたが、それをリヒトが制した。今はルナリスに任せるべきだ――その判断を、ベルも渋々受け入れる。


「あの、影……とは?」

「聞こえなかった? 彼らは私の密偵よ。もしものために別々に街へ入ったのだけれど……どうやらあの子を保護してくれたようね。優秀だわ」


 ルナリスがリヒトに視線を送ると、彼は無言で頷いた。仮面の奥で煌めく瞳が懐かしい。今すぐに駆け寄りたい気持ちを堪え、ルナリスは話を続けた。


「ムザ。私と取引をしない?」

「と、取引……ですか?」


 突如の提案に、ムザは目を泳がせる。もはや周囲に私設兵の姿はなく、彼を守る盾はどこにもない。拒絶などできるはずもなかった。


「あなたがノクティリカからの催促を、散々無視してきたことは知っているわ。そして――“オブシディアン家”からの書簡で、ようやく重い腰を上げたこともね」


 薄く笑みを浮かべるルナリス。その言葉に、ムザは喉を引き攣らせた。


 ルナリスたちがこの情報を手に入れたのは、今日昼のことだった。

 機嫌取りに訪れたムザから屋敷へと招かれ、彼らは応接へ通された。

 ムザは赤竜の核を未だ見つけられぬ理由を延々と並べ立て、やがては同情を誘うように涙さえ滲ませた。

 よくもここまで下手に出られるものだ、とルナリスは内心で呆れたが、裏を返せば、それほどまでに五大鉱脈家を恐れている証でもある。そのことが、彼女の胸に複雑な思いを残した。

 一方で、ムザの注意をルナリスが引き付けている隙に、口の回るアイゼンは使用人たちへと巧みに話を仕掛けていた。日頃から横柄な主人に鬱憤を募らせていた彼らは、思いのほかあっさりと口を割った。

「ノクティリカから届いたある書簡を読んでから、ムザが慌てて子供探しを始めた」という証言を聞いたのも、その時だ。

 それを聞いたアイゼンは、さらに確証を得るべく密かにムザの私室へ忍び込む。

 部屋の一角、棚に押し込むように積み重ねられた書簡の束。

 それは一通に留まらず、かなり以前に送られたものまで混じっていた。どれも赤竜の核を催促する文面が記されていたが、差出人の名は記されていない。

 ただ、一番新しい書簡にだけ、先の尖った矢尻を思わせる印章が押されていた。

 アイゼンの報告を聞いたルナリスは、その印が意味するところを即座に理解する。

 ――オブシディアン家。矢尻型の紋章は、彼らが司る黒曜石を表したものだった。

 五大鉱脈家のひとつに数えられながら、公の場に姿を見せることは滅多にない一族。

 その実態は、後ろ暗い仕事を請け負うノクティリカの暗部である。

 ムザがこの書簡に震え上がり、ザヒール探しを始めたことは明らかだった。

 オブシディアン家からの書簡で、ようやく重い腰を上げたムザ。

 つまり、ノクティリカとの約束さえなければ、彼にとって赤竜の核などさして重要ではないのだ。ルナリスはそう見抜いていた。


「赤竜の核については、私に任せてくださらない?」

 

 澄んだ声が静寂を切り裂く。

 

「その代わり、二度とあの子供に手を出さないと約束していただければ、私が父を通して、あなたをこの件から引かせるよう五大鉱脈家へ伝えましょう」


 どのみち、赤竜の核はすでに砕け散っている。残されているのは僅かな欠片と、大地を汚す瘴気のみ。ムザがどれほど血眼になって探そうとも、見つかるはずがなかった。

 案の定、ムザはその取引に飛びついた。

 震える手を胸の前で組み合わせ、祈るような仕草を見せながら、頭を深々と垂れる。


「も、勿論でございます……!」


 その声には、もはや虚勢の影もない。

 ルナリスの冷たい眼差しが、彼の無力さを余すところなく映し出していた。




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