86話 騒動③
夜の街を、彼らは風のように駆け抜けた。
屋根から降りると、砂の溜まった庭先に着地してあちこちが砂まみれになるが、そんなことに構っている暇はない。通りの灯りに照らされて、走る影が白亜の壁に黒く映し出される。観光客が何事かと振り返り、商人が店先から顔を覗かせる。だが彼らの視線など、今は問題ではなかった。
「ねぇ、どこへ逃げるつもり!?」
ふたつに結った髪を乱し、息を切らしながらベルが問いかける。背後では私設兵の足音が次第に近づいてくる。街を熟知する兵らのほうが有利なのは明白だ。
「仕方ない、さっきティオが言っていた遺跡へ向かおう!」
「えぇ~っ!」
幽霊話が苦手なベルは不満を漏らすが、足音は容赦なく大きくなっていく。
「じゃあ、オアシスを泳いで向こう岸に行くか? 砂虫の巣窟だぞ」
「それはもっと嫌!」
子供じみたベルの物言いに、リヒトは苦笑を浮かべる。
「なら、遺跡だ」
「ボクが先頭を走るよ。シルフ、案内を頼む」
ティオがザヒールを小脇に抱え前に出ると、風の精霊に先導を任せた。何かが飛び立つように、ふわりと風が動く。
通りを縫うように走るうち、建物はまばらになり、灯りも途切れがちになる。やがて目の前に朽ちた石の門と、砂に埋もれかけた階段が現れた。あの先が、赤の部族の墓場となっているはずだ。
だが一行が辿り着くよりも早く、闇に立ちはだかる影があった。ムザの私設兵だ。彼らは既に守りを固め、リヒトたちの行く手を遮る。足を止めた彼らの背後で追跡の兵も追いつき、あっという間に四囲を取り囲まれた。
仮面の奥で、リヒトは素早く数を数える。三十人前後といったところか。だが装備は兵らしくはなく、粗野で雑な武具を携えた連中が目立つ。街や砂漠をたむろするゴロツキを雇ったのだろう。見た目は盗賊の群れに近い。
「なによ、あんたたち!」
ベルが噛みつくと、前に一人、高級そうな赤い羽織を纏った肥満体の男が出てきた。ターバンを巻き、たっぷりした顎鬚を撫でながら、しわがれた低い声で言う。
「それはこちらのセリフだ、お嬢ちゃん」
男はベルの頭からつま先までを値踏みするかのように眺めると、松明に照らされた顔に下卑た笑みを浮かばせた。それを遮ってリヒトがベルの前に立つ。
「ふん」と鼻を鳴らした男は、一行を順繰りに見回しながら言った。
「私の街で、あまり騒ぎを起こさないでほしいものだね」
リヒトは仮面越しに瞳を光らせる。
「……ということは、あんたが街長か」
「いかにも、わたくしがムザだ」
名乗ったその声に、ザヒールはティオの背でさらに縮こまる。小さな肩が震えているのが見えた。ムザはその少年をちらりと見遣り、にべもなく続けた。
「そのガキをこちらへ渡せ」
要求は簡潔で冷たい。リヒトは一歩も引かず、言い放つ。
「お断りだ」
ムザはやれやれと首を振る。その口元に薄い笑みが滲むと、静かに脅しの声を落とした。
「こちらとしても、手荒な真似はしたくないのだがね……」
「これだけの兵を動員しておいて、よく言う」
脅しは一瞬の間を置き、やがて冷え切った命令に変わる。ムザは手を上げ、兵士たちに指示を送った。
「やれ。ガキが無事なら、あとはどうなっても構わん」
合図とともに、私設兵が襲い掛かってきた。曲刀のきらめきが闇を切り裂き、群れの先頭が斬りかかる。
リヒトは鋭く身を翻し、曲刀の一閃を軽々と避けてから、相手の首筋を手刀で的確に打ち抜いた。敵はけたたましく崩れ、動きを止める。彼の動きは無駄がなく、仲間たちも手早く反応する。
「みんな、命だけは奪うな!」
リヒトの声が戦場に響く。
迎え撃つ冒険者たちの顔に、焦りは微塵もない。
ティオはオズとザヒールを物陰へと避難させると、迫りくる兵らをシルフの風で巻き込んだ。突如吹き荒れる突風に煽られた兵たちは、這うようにして抗い、体勢を崩す。そこへ、グレイスの放った針が正確に突き刺さった。痺れ薬を仕込んだ針は腕や足に突き立ち、呻き声を上げながら兵たちは次々と地に伏していく。
ベルは軽やかに攻撃を躱すと、槍の柄で敵を叩き据えた。鋭い突きは避けつつ、反撃は急所を外す。その動きは迷いがなく、彼女らしい真っ直ぐな力強さがあった。
金で雇われた兵どもに連携など出来るはずもなく、ただ数に任せて突っ込むばかりだが、それでも押し寄せる勢いは脅威だった。敵の数を半分ほど削ったところで、夜気を裂く鏑矢の音が響く。
(増援!?)
リヒトは胸の内で舌打ちすると、鞘に納めたままの剣で兵のすねを打ち据え、呻きを引き出す。
「ふん……どこまで耐えられるかな」
ムザは肥えた体を揺すりながら、嘲るように笑った。だが、その目の奥には焦りの色がにじんでいる。数で押し潰すつもりなのだろうが、この一行がただの旅人ではないことは、既に明らかだった。
戦いはさらに激しさを増し、白亜の壁には灯火に照らされた影の群れがざわめきながら揺れ広がっていった。
「こいつら、いい加減しつこいわね」
「ほんとに。虫みたいに湧いてくるなぁ」
ティオとグレイスが、うんざりしたように吐き捨てる。
残った兵の中には、恐れをなして逃げ出す者も出始めていたが、戦いの勢いはいまだ衰えなかった。数で押そうとする無謀さが、なおも冒険者たちを取り囲む。
やがて夜風に混じり、遠くから新たな足音が響いてくる。砂を踏みしめる重い気配。
増員が、ついにやってきたのだ。
リヒトは額を伝う汗を手で拭い、短く息を吐いて気を引き締めた。
だが、次の瞬間――。
「……何をしているのです、ムザ」
静かに響いた声は、戦場には似つかわしくないほど澄んでいた。
現れたのはルナリスと、彼女を守る護衛の一行だった。闇の中に立つその姿は、砂塵と血の匂い漂う喧噪の只中で、ひときわ鮮やかに際立っていた。




