82話 祖国の影①
その夜、オアシスのほとりに建つ青の雫亭は、ひときわ華やかな熱気に包まれていた。
最高級の果実酒が惜しげもなく注がれ、卓上には贅を尽くした料理が並ぶ。絹の衣に身を包んだ妓女たちが舞うたび、金の鈴が鳴るような笑い声と弦楽器の調べが、窓の外の水面にまで広がっていった。
すべては今宵のために。ひと組の客をもてなすための宴である。
家名こそ明かさぬものの、相当な身分を持つであろう若き貴族の娘がこの街を訪れていたのだ。宿の主人は浮き立つ心を抑えきれず、今までにない上客を前に張り切っていた。
部屋からは、ザルカード王国に伝わる古の歌が響く。舞い終えた妓女たちは、手に指輪や髪飾りといった宝飾品を握りしめ、うっとりとした笑みを浮かべながら部屋を後にした。それらは客から与えられた褒美にほかならず、一つひとつが目のくらむような逸品であった。
やがて夜も更け、宴の熱もようやく落ち着きを見せはじめた頃。
青の雫亭の扉が、乱暴に押し開けられる。
現れたのは、肉付きのいい初老の男。頭にはターバンを巻き、たるんだ頬の下にはたっぷりとした髭を蓄え、上等な赤の羽織をまとっていた。その背には、不死鳥の姿が金糸で刺繍されている。
「――これはこれは、ムザさま」
主人は慌てて駆け寄り、満面の笑みで出迎える。男はフェニアの街長、その人であった。
「随分と賑やかなようだな」
「ええ。今宵はなにぶん、格別の上客がございまして」
愛想よく頭を下げながらも、主人の心の奥では舌打ちが響く。せっかくの客を、また横から掠め取られては堪らない。過去に幾度もそうして客を失ってきたのだ。
「なに、お前の客を奪うつもりはない。ただ、一晩ばかりは、我が屋敷でもてなしたいと思ってな」
心を見透かしたかのように言うムザに、主人は笑みを深めるしかなかった。街長の言葉には逆らえぬ。
「……それならば、けっこうですが」
揉み手をしながら、主人はへつらうように答える。
「で、その貴族とやら、いずれの家柄か?」
「お忍びだとのことで、名は伏せておられます」
「ふん……まあ、よい」
ムザは顎髭を撫で、不敵に口角を吊り上げた。世間知らずの貴族が遊興に紛れ込むのは珍しいことではない。多少強引な手を使ってでも金を搾り取れるだけ搾り取り、払えぬとなれば家ごと締め上げればよい。
それがムザの常套であった。
「して、滞在はどれほどと?」
問われた主人は、懐から小包を取り出す。
包みを開けば、眩い輝きが部屋を照らした。
「これらで可能な限り、と」
眼前に並ぶ宝飾の数々に、ムザの瞳が釘付けになる。
伊達に長年、この金と欲の渦巻く街で長の座にあるわけではない。宝石に精通する彼の審美眼は、ごまかせぬものだった。
「……ノクティリカ産の宝石か!」
透き通る海のようなアクアマリン、市場では滅多に見ることのできないスフェーン、そして光の角度によって色を変えるアイオライト――。
その輝きは紛れもなく、特級と呼ぶにふさわしい本物だった。
「これで七日ほどは……」と恐る恐る口にした宿の主人に、ムザは鼻で笑い、声を荒らげた。
「馬鹿者! 七日どころか、その倍……いや、ひと月でもいいくらいだ!」
あくどいやり口の面ばかりが目立つ男ではあるが、本当に価値あるものに対しては正しい評価を下す。そうでなければ、鋭い目利きが濁ってしまう。そんな信条を、彼は持ち合わせていた。
できるだけ滞在を伸ばさせよう。
あの宝石たちが、価値もろくに分からない主人の手に渡るのは不快だが、こちらはこちらで搾り取ればよい。
(七日のうちに追い出すなど、させるものか)
ムザは大仰に袖を払うと、その足で客人が滞在する部屋へと歩き出した。
一方ルナリスたちの部屋には、宴の熱気が消えたあとも妓女の甘ったるい残り香が漂っていた。
これでもかと運ばれた料理を平らげたマシューとアイゼンは、腹を押さえて苦しげに床へ転がっている。
「だらしがないぞ」
あきれ果てるラセルに、ルナリスは肩をすくめて言った。
「これだけ食べて飲んだのだもの。仕方ないわ。お願いしたのは私だし」
「こんなお願いなら、いつでも大歓迎でさぁ……」
呻きながらもマシューが応じる。
「だいぶ奮発しましたねぇ」
果実酒の杯を片手にしたサフィナが、呂律の怪しい声で言った。頬は真っ赤に染まり、瞳はとろんと溶けている。
「あなたは、そろそろ止めなさい」
ルナリスが苦笑すると、侍女は「はぁい」と間延びした声で答えた。
「でも、ここまで派手に遊べば……いずれ、あちらから姿を現すはずよ」
ルナリスが囁いたその矢先、部屋の外から規則正しい足音が響いてきた。妓女の滑るような歩みでもなく、宿の主人の小走りでもない。
ルナリスはラセルと目を合わせる。
ラセルは即座に、床で転がる二人を叱咤して居住まいを正させると、酔いつぶれたサフィナの代わりにルナリスの傍らへ控えた。
「夜分遅くに失礼いたします。わたくし、ムザと申す者で、このフェニアの街長を務めております」
扉の向こうから現れたのは、ふくよかな体躯に赤い羽織をまとった初老の男だった。愛想を貼り付けた笑みを浮かべ、恭しく頭を下げている。
(かかったわね)
扇で顔を隠したまま、ルナリスは心の中でほくそ笑んだ。
「おお、あなたが街長どのか! よくぞ来てくださった!」
「料理も酒も、そしてこの眺めも! お嬢様はたいそうお気に召されたようだ!」
大仰に褒め称えるマシューとアイゼンに、ムザは満足げに頷き、「それはようございました」と答えた。だが次の瞬間、その目は自然とルナリスへと移る。彼女からの言葉を待っているのだ。
「ほんとうに――」ルナリスは澄んだ声を響かせて、ゆるりと扇を下ろした。
「素晴らしい街ですこと」
肩にかかる金糸の髪をかき上げ、静かに微笑む。誰もが息を呑む、月の宝玉と称される美貌。
その比類なき美しさに、しかしムザは異なる反応を示した。
「ひっ……!」
小さな悲鳴を漏らし、目を大きく見開いたのである。
「も、もしや……あなた様は……アイオライト家の、ルナリス様では……!?」
予想外の直截な名指しに、ルナリスは反射的に扇で口元を隠した。
名ならまだしも、ここまで自らの顔が知れ渡っているとは思いもしなかった。――いや、五鉱家の名を冠する以上、取引先に知られていても不思議ではないのか。
「いかにも、わたくしはアイオライト家の娘ですが……」
迂闊だったと悔いながらも、ルナリスは答える。
その瞬間、ムザの顔から血の気がさっと引いていった。
腰を抜かしたようにその場へ崩れ折れ、贅肉に覆われた体を震わせながら、床に額をこすりつける。
「も、申し訳ございません……!」
彼の口から飛び出したのは、謝罪の言葉だった。
一体どういうことだろう。
ルナリスは扇を握る手に力を込めた。身元を明かしたことへの畏れか、それとも別の理由か。
マシューとアイゼンは互いに目を見交わし、ラセルはひときわ険しい表情でムザを睨み下ろす。
その場の空気が重く沈みこみ、妓女の残り香すらも妙に薄ら寒く感じられるほどだった。




