80話 オアシスの街③
静かな水面に、街の灯火が揺らめく頃。
幌馬車を曳いた一団が、フェニアの門をくぐった。
この街で旅人を最初に迎えるのは、兵でも検問でもない。商魂逞しい宿屋の客引きたちである。彼らは入ってくる一行を一瞥し、衣服や所作から財力を見抜くや否や、すかさず声を張り上げる。
「ぜひ我が宿へ!」
「おもてなしなら、ほかに引けを取りませんぞ!」
商人顔負けの口上が、あたりに飛び交った。
やがて、馬車からひとりの女性が侍女に手を取られて姿を現す。
砂除けの外套を深く被っていても、その奥にのぞく美貌は隠しきれない。通りに居合わせた者は、思わず息を呑んだ。
女性は客引きのひとりを呼び寄せると、懐から小さな包みを取り出した。
中には、細やかな意匠を施された宝飾品がいくつも並んでいる。
「ごめんなさいね、手持ちの金貨が足りないの……。これで泊まれるかしら?」
宿に特別なこだわりはない。ただ、男が口にした宿の名――“青の雫亭”が、耳に心地よかった。それだけの理由で選んだにすぎない。
宝飾を手にした客引きは、一瞬きょとんとした。だがすぐに、掌にのる煌めきを見て目の色を変える。
揉み手をしながら、媚びるように深々と頭を下げた。
「ええ、ええ! それはもう! 最高のお部屋をご用意いたしますとも!」
こうして、令嬢と侍女、そして三名の護衛からなる一行は、青の雫亭が誇る最上の客室へと案内された。
「まぁ……!」
客室へ足を踏み入れた女性は、細い指で口元を覆った。
開け放たれた窓の向こうには、灯火を受けて煌めくオアシスが広がっている。美しい青を湛えた水面のきらめきは幻想的で、思わず目が奪われる。
庭に植えられた椰子の木々が柔らかな影を室内へ落とし、白亜の柱にかけられた薄布のカーテンは、風に吹かれて静かに揺れていた。
「素晴らしいお部屋だわ。よろしいのかしら?」
「なにを仰いますか、勿論ですとも。ほかにも御用があれば、なんなりとお申し付けください」
案内役は、客引きの男から宿の主人へと変わっていた。恰幅の良い主人は満面の笑みを張り付けて、ひたすら腰を低くする。よほどの上客だと値踏みされたようだ。
「では、人数分の食事と果実酒を。みなお腹を空かせているから、遠慮なく持ってきてちょうだい。それと……できればこの土地の歌も聞きたいわ」
涼やかな布地が張られたソファに座ると、彼女はそう言って彫刻の施された木枠に肘をついた。しなやかに寄り掛かる姿は、絵画のように美しい。
青と白を基調に整えられた室内には、随所に金の装飾があしらわれている。壁には緻密な文様が描かれ、天井から吊り下げられたシャンデリアには蒼い宝石が散りばめられ、水滴のように瞬いていた。
静謐と華やかさを兼ね備えたこの部屋は、まるで彼女のために誂えたかのようにも思えた。
ほうっと見惚れる主人を手招きすると、女性は宝石のあしらわれた腕輪を外し、
「足りないようでしたら、こちらも」
と微笑んで差し出した。
両手でそれを受け取った主人は、深々と一礼すると、注文を叶えるべく部屋を後にした。
主人が下がったのを見計らい、一行は互いに顔を見合わせる。
静まり返った室内に、くすくすと忍び笑いがこぼれた。
「さすが、板についておられますな」
アイゼンがそう言うと、ラセルとマシューが同意して頷く。
「本当にいいお部屋ですねぇ」
サフィナははしゃいだように窓際へ駆け寄り、オアシスの夜景を覗き込んだ。
「でも……ちょっと、アイオライト家のお屋敷に似ている気がします。もちろん、あちらのほうがずっと立派ですけれど」
その言葉に、女性――ルナリスも改めて室内へ目を巡らせる。白亜の壁、宝石を散らしたような意匠、整えられた雰囲気。
サフィナの言う通りだった。そしてそれは、この部屋だけではない。フェニアの街並みそのものが、故郷ノクティリカを思わせるのだ。もしかすると、建築の折に参考にされたのかもしれない、と心の中でひとりごちる。
立ち上がり、彼女はオアシスを望む窓辺に歩み寄った。夜気がひやりと頬を撫で、旅路で火照った肌を心地よく冷ます。
(……リヒトたちは、私たちの到着に気づいたかしら)
まだしばらくは別行動を取らざるを得ない。それでも、せめて元気な姿を一目見られれば。そんな想いが胸をよぎる。
彼らは安宿に身を潜めているはずだ。同じ街にいるのに会えないことが、もどかしかった。
「……街長は来ますでしょうか?」
小声で問うたのは、ラセルだった。凛とした瞳を部屋の入り口に向け、じっと見つめている。
「どうかしら」
視線を窓の外へ向けたまま、ルナリスは答える。
「お眼鏡にかなうだけの品は、渡したと思うけれど……」
一行は、ひとつの計画を企てていた。
フェニアの街長、ムザという男に会うことだ。リヒトたちには伝える暇がなく、まだこの計画を知られてはいない。だが、きっと有益な情報が得られるはず。
――それは、ザルカード側の国境砦でのことだった。
彼女たちは、そこでとある話を耳にしていたのだ。




