78話 オアシスの街①
果てしない砂漠の只中に、蜃気楼のごとく浮かび上がる街。それがフェニアである。
乾いた砂丘に一滴の涙を落としたかのような蒼碧の湖は、古よりこの大地に命をもたらしてきた。湖畔には白亜の建物や高塔が建ち並び、陽光を受けて宝石のように輝く。その眩さは、遥か彼方の旅人さえ道標とするほどだ。
交易の要衝としても栄え、各地からは多くの商人が集まる。香辛料や宝石、異国の文様を刻んだ工芸品が店に並び、砂漠の民と観光客が入り混じって活気を生み出していた。
湖の中央に浮かぶ小島は、古くから水の守護を司る聖域とされ、今なお祈祷や儀式が絶えることはない。
フェニアを語るうえで欠かせないのが、「赤の部族」と呼ばれる高潔な民の存在だ。
この街は約二十年ほど前まで、焼け焦げた無残な跡だけが残る呪われた土地だった。「赤翼の災禍」と呼ばれる古龍の炎によって、住民ごと全てを焼かれているのだ。
それを復興した者たちこそ、災禍より逃げおおせた「赤の部族」の生き残りである。死そのものが蹂躙していったこの土地を、彼らは必死に立て直し、以前の姿よりもはるかに美しく復活させた。まるで、不死鳥の祝福のように。
復興と希望の象徴であるフェニアは、やがてザルカード王国の内外から人々が訪れる一大都市となった――。
これが、現在伝えられているフェニア復興の物語だ。
人々はこの話を聞くたびに涙を浮かべ、あるいは誇らしげに頷く。吟遊詩人の謳う調べは、今日もオアシスの街に響き渡る。
真実を映したはずの碧き水面は、なにも語ることはなく黙するのみ。
フェニアの大通りには、庶民向けの簡素な市場などひとつも見当たらない。どの店も立派な佇まいを誇り、商いはすべて建物の中で行われていた。
それでも多くの商人がこの街を目指すのは、通常よりも高い買い取り額、それをさらに上回る売価であっても問題なく捌けてしまう、裕福な客層の存在ゆえだ。この美しい街は、国の内外から貴族が休暇に訪れる保養地でもある。
一方で、拝金主義とも取れるこの街は、庶民やしがない冒険者にとってはあまりに厳しい場所だった。安宿こそあるものの、街の片隅に追いやられた一角で軒を寄せ合っており、水一杯でさえ対価を求められる始末だ。
貧乏人など、誰ひとり顧みない。
そんな白亜の街の大通りを、二人の女性が歩いていた。
冒険者ギルドの依頼でこの地を訪れている、ベルとグレイスである。彼女たちは、何度目になるか分からない客引きをあしらいながら、内心うんざりしている。
「しっしっ!」
ベルは手を振り払い、可愛らしい顔に不機嫌さを隠そうともしない。足取りは速くなるばかりだ。
連れの態度を取りなそうと、グレイスがたおやかに微笑むと、商人は顔を赤らめて渋々店に引っ込んでいった。さっきからずっと、この繰り返しである。
情報収集ついでに観光をと街を歩き出した二人だが、最初は客引きの声に愛想よく応じていた。しかし金払いの渋さを見抜かれると、すぐに興味を失われ、ぞんざいにあしらわれる。そのやり取りが何度も続けば、嫌気も差してくるというものだ。
「あたし、この街きらいかも」
素直な感想を吐き出すベルに、グレイスも頷いた。
「そうね。なにをするにも金、カネ。しがない冒険者には居心地が悪い場所だわ」
大通りを行き交うのは、みな裕福そうな身なりの者ばかり。
「まあ……王子様とか貴族のご令嬢なら、楽しめるんでしょうけれど」
その言葉に、ベルがピクリと反応する。リヒトと彼の婚約者の姿を思い浮かべたのだろう。むくれた顔を覗き込み、グレイスは小さく笑った。
なんて分かりやすい娘だろう。心にいつも正直でいられる彼女を、少し羨ましく思う。
大股で歩みを早めるベルの背を追いかけると、やがてオアシスのほとりにある小さな公園に出た。蒼碧の水面が陽光を反射し、眩しく輝いている。
「せっかくだし、休んでいきましょう。景色はタダよ」
グレイスはベルを誘い、大理石のベンチに腰を下ろした。
ベルはまだ口をつぐんだままだ。その横顔を見つめながら、グレイスはふと声をかけた。
「そろそろ、楽になってもいいんじゃない?」
ベルの大きな瞳が、一瞬だけ揺れる。
「……なんのこと?」
「貴女らしくないわよ。他人も自分も傷つけるような態度をとるなんて」
「あ、あたしは、べつに――」
グレイスは胸の内でため息をつく。ずっと気がかりだったのだ。
事の発端は、グランメル領で水源調査に赴いたあの日。ルナリスという女性に出会って以来、ベルの態度はどこかおかしかった。
リヒトがウォルフワーズ国の王子であること、そして婚約が成されたことを、仲間は皆知っていた。
ルナリスがリヒトを「弟」と呼んだ時、その嘘は容易に見抜けた。王家にそんな娘はいないし、何よりリヒトの視線――あの眼差しには、恋慕がはっきりと宿っていたのだから。
結論はひとつ。ルナリスこそが婚約者であり、二人の間にはすでに深い情があるということ。
あの日以来、ベルはリヒトに過剰なまでのスキンシップを仕掛けるようになった。とりわけ、ルナリスがいる前で。そして、そのたびに令嬢の表情が寂しげに歪むのを、グレイスは見てきた。
本来のベルなら、誰かを意図的に傷つける真似などしない。ルナリスに対してだけなのは、きっと嫉妬心のせいだろう。
けれど、そんなことで欲しいものが手に入るはずもない。むしろ彼女自身が傷付いていくだけだ。
「このままでいいとは、思ってないくせに」
「だって……」
「気持ちを伝えなきゃ、始まりもしないし……終われもしないわ」
「だって! 気持ちを伝えたら、今の関係だって終わっちゃう……! もう今までみたいに、話せなくなっちゃう……」
ベルだって分かっているのだ。リヒトの心がどこを向いているかなど。
散々アプローチしても気付かなかった筋金入りの朴念仁が、ルナリスに対してだけは違う。熱を帯びた瞳、甘やかな声音、労わる仕草。その一つひとつから、嫌でも彼の想いを突き付けられる。
「あの王子様は、超が付くほど鈍感ではあるけれど……気持ちをまっすぐ伝えてくれた女の子に対して、距離を取るような男だと思う?」
その言葉に、ベルは沈黙した。
これまで彼と過ごした時間の数々が、心に溢れてくる。
優しくて、真っ直ぐで、どこか抜けていて――身分の差など感じさせずに、分け隔てなく接してくれた王子様。
ベルは無言で首を横に振った。
リヒトが告白ひとつで関係を変えるなど、本当は思えなかった。ただ、自分が傷つくのが怖いだけなのだ。
グレイスはそっと、ベルの頭に手を置いた。
潤んだ瞳から涙が零れ落ち、ベルは小さな体を縮め、抱えた膝に顔を埋めた。




