73話 赤竜の討伐地⑥
深い原生林を抜けて辿り着いた峡谷の最奥は、まるで世界から切り離された死の荒野だった。
赤褐色の岩壁に囲まれた谷底は、生命の息吹を失い、立ち枯れた木々と灰色に変じた草に覆われている。ひび割れた大地の隙間からは、どす黒い瘴気が霧のように立ち昇り、空気そのものを腐らせていた。
中央には、岩と焦げた巨木の残骸で築かれた異様な構造物が鎮座していた。崩れ落ちた巣は、もはや竜の威容を思わせるものではなく、ただの廃墟に過ぎない。
その荒廃を目前にすると、胸を圧迫するほどの黒い気配がまとわりつき、一行は歩みを止めた。
ここが目的の場所だと、誰しもが感じ取った。しかし、喜びに沸く声は聞こえない。
「ここが、赤竜の最期の地……か」
リヒトが重々しく呟く。瘴気に侵され荒れ果てた地には、輝かしい冒険譚の一片すら感じられなかった。
その後ろで、ルナリスが小さく息を呑む。
彼女の視線はまっすぐに、リヒトの鞄の中にある小箱へと吸い寄せられている。瘴気に呼応するかのように、箱の内側から淡い脈動が漏れ出していた。
菫青色の瞳がわずかに揺れる。
リヒトの耳には何も届かない。だが、彼女の表情から察した。
声を聞いている。
(囁かれているのか……彼女にだけ)
見えない声が、彼女の心を裂こうとしているのだろう。焦りが胸に去来する。
「ルナリス、大丈夫?」
声をかけても、彼女は答えず、ただ唇を噛んでいる。その横顔は普段の彼女らしくなく、ひどく危うかった。
リヒトは無意識に彼女の腕を掴んでいた。瘴気よりも、欠片よりも、目の前で揺らぐ彼女の姿が不安を煽った。
そのとき、ザヒールが鞄に括り付けていた包みを解いた。中から現れたのは、手のひらほどの大きさの石板。
「それは?」リヒトが問うと、少年は緊張した面持ちで答えた。
「祖父が残したものです。これがあれば、きっと……」
そう言うと、ザヒールは恐る恐る瘴気が濃くなる境まで歩み出す。一行が固唾をのんで見守る中、彼は石板を高く掲げ、聞き慣れぬ言葉を口にした。なにかの呪文のようだ。
「……古代語だ」ただひとり、ティオがその意味を知る。
だが、少年がどれだけ祈っても瘴気はびくともせず、濃さを増していく。次の瞬間、不穏な風が谷を裂き、黒い靄が一斉に渦を巻いた。
「下がれ!」
押し寄せる瘴気に呑まれそうになり、リヒトたちは退却を余儀なくされた。ティオが呆然としているザヒールを抱え上げ、リヒトは立ちすくむルナリスの手を取って走る。
ちらりと背後を振り返った瞬間、黒い瘴気が竜の姿を象ったかに見え、リヒトの背筋に冷たいものが走った。
どうにか瘴気の奔流を振り切り、一行は岩陰に身を潜めた。そこは谷の外れにある窪地で、風の流れのせいか、黒い靄は届いてこない。
全員が荒い呼吸を繰り返しながら、ようやく腰を下ろした。
「……危なかった」
リヒトは額の汗を拭いながらも、ルナリスの手を離さなかった。彼女はまだ顔色が悪く、唇を結んだまま沈黙している。
「すみません……僕のせいで」
ザヒールが小さく肩を震わせた。石板を胸に抱え込み、悔しそうにうつむいている。
「お前のせいじゃない」リヒトが即座に否定する。「あの瘴気は、俺たちの想像以上に強大だったんだ」
「でも……祖父は言っていました。『この石板が道を切り開く』って。なのに……どうして……」
少年の声は震えていた。
「古代語の呪文は正しかった」
ティオが口を開いた。エルフは、精霊と交信を行う際、古代語を操ると云われている。
「ただ……この石板からは何の力も感じない。瘴気を封じるには、もっと大きな術式か、あるいは別の道具が必要なんだろう」
「じゃあ、どうすれば……?」
サフィナが不安そうに問う。大きな瞳が隣に座るオズを見やるも、彼は静かに首を横に振った。
沈黙が落ちる。誰も答えることはできなかった。
リヒトはルナリスの横顔をそっと盗み見る。彼女の瞳はまだ遠くを見つめるように揺れている。きっと、あの囁きの余韻に囚われているのだ。
ザヒールとの出会いによって一時は見えていた希望が、再び薄れてゆく。
“赤竜の魂鎮め”が瘴気を消してくれることに期待していた。そうすれば、ウォルフワーズの各地を脅かす瘴気も、彼女を蝕むものも、解決されると。だが、話はそう簡単にいかないようだ。
祖国の大地を救いたい。そして、ルナリスを守りたい。
どうすればいいのか。焦燥が募っていく。
「一度、立て直そう」
リヒトが全員を見渡す。ここで立ち止まっていても進展は望めない。
「まずは……情報だ。ティオ、古代語について分かることを整理してくれ。ザヒール、君の祖父が残した記録は他にあるか?」
「もう、ほとんど目を通してしまいましたが……探せば、まだ何か見つかるかもしれません」
ザヒールはかすかに希望を取り戻したように頷く。
「とにかく今は、できることをやろう。一度、昨夜の野営地まで戻るぞ」
一行はそれぞれ頷いた。荒んだ風が岩壁を叩き、谷の奥からはなおも瘴気が渦を巻いている。
不吉な風の音は、リヒトたちを嘲笑うかのように、いつまでも死の荒野に響いていた。




