71話 赤竜の討伐地④
ラセルに代わって、先頭を進むのはリヒトとゼファーだった。
長らく気を張っていたラセルは、ようやく肩の力を抜いたようで、傍らのアイゼンと並んで歩いている。ふたりの表情は穏やかで、自然と歩調も揃っていた。その姿を目にしたルナリスは、胸の奥があたたかくなるのを覚え、ひっそりと微笑んだ。初めて見る、ふたりの夫婦らしい空気だった。
前方の黒狼は、時折川へと足を踏み入れ、ざぶざぶと水飛沫を上げる。
「こら、ゼファー!」
不意にしぶきを浴びせられたリヒトが、子どものように声を上げ、無邪気に笑った。
夏の陽は容赦なく照りつけ、砂塵を含んだ熱気が肌を刺す。分厚い毛並みに覆われたゼファーには、なおさら堪える暑さだろう。だからこそ、リヒトは相棒を叱るふりをしながらも、好きにさせているのだ。笑い声には、甘やかすような色が滲んでいた。
そのすぐ脇でベルが歩み寄り、楽しげにリヒトと談笑している。
後方では、ティオが「あついねぇ」と言いつつも、どこか余裕の笑みを浮かべている。その隣を歩くグレイスは寡黙なまま、一定の歩調を崩さない。冒険者としての自信と余裕が、傍目にも感じられる動きだった。
ルナリスは小さく吐息を漏らした。疲労が溜まっているせいもあるが、それだけではない。
リヒトが冒険者仲間と並び、肩を並べる姿を目にするたび、心の奥にちくりとした疎外感が芽生えてしまう。彼らは決してルナリスを排除しているわけではないのだろうが、勝手に壁を感じてしまうのだ。
とりわけ、ベルという少女に対しては、抑えきれないもやもやが渦巻いた。
認めたくはなかったが、これは嫉妬に他ならない。
前世の記憶があるとはいえ、この世界で彼と過ごした時間は、ベルよりもずっと短い。
もちろん、リヒトが自分を愛していることは疑いようがない。さっきだって、彼は皆の前で「婚約者」とはっきり言ってくれた。
だが、それでも。
自分の知らない時間をリヒトと共有している少女がいる事実に、胸の奥がどうしようもなくざわついてしまう。
(もっと……余裕を持たなきゃ、ダメね)
ふう、ともう一度息を吐き、胸の奥に感情を押し込める。
そうして歩を進めるうち、一行は川沿いに小高い丘を見つけた。木陰が広がり、休憩にはうってつけの場所だ。
真っ先に駆け上がったゼファーが、頂で鼻をひくひくと動かす。
「どうだ?」とリヒトが呼びかけると、狼は低く鳴き、安全を告げた。
「今日はここで休もう。……ザヒールも、それでいいか?」
問われた少年は、小さく頷いた。
その姿に、ルナリスの心は不意に痛む。
ザヒールには、待ってくれる家族もいなければ、帰りを心配してくれる者もいない。まだ幼い彼が、ひとりで砂漠を越え、この地に立っている。その事実を思えば、胸に沈む痛みはなおのこと深くなった。
早めの夕食を終えると、焚火の赤い灯が夜の闇を押し返していた。
その炎の前で、ザヒールが小さな背を丸め、膝を抱えて座っている。隣では、うつらうつらと舟を漕いでいたルナリスが、リヒトの気配に気づいて薄く瞼を上げた。
「ごめん、起こした?」
心配そうに覗き込む声に、ルナリスは首を振り、微笑む。
「ううん。大丈夫よ」
愛しい婚約者と短く笑みを交わすと、リヒトはザヒールを挟むようにして腰を下ろした。
頭上には満天の星。渓谷の夜はひときわ闇が深く、光を宿した星々は、はるかな高みに瞬いている。響くのは川のせせらぎと虫の声。
時折吹く風が木々をざわめかせるたび、ルナリスの傍らで伏せていたゼファーが、ぴくりと耳を動かした。黒狼が一行と共に夜を過ごすのは、これが初めてのことだ。慣れない土地にあって、相棒はいつも以上に警戒を強めているのだろう。
リヒトは焚火の揺らめきを見つめながら、静かに問いかけた。
「ひとつ、聞いてもいいかな?」
黒い瞳が不安げに揺れる。ザヒールは声を失ったまま、唇を結んだ。
「きみは、どうしてこの場所へ来たんだ? 大人でも滅多に立ち入らないところだろうに……」
答えに詰まる少年の背を、ルナリスはそっと撫でた。
「大丈夫よ」
囁く声に、ザヒールは小さく頷く。やがて、炎に照らされた横顔が震えるように動いた。
「……赤竜の、魂鎮めをしたくて」
その言葉に、リヒトとルナリスは思わず顔を見合わせた。
「それって――“さすらいの冒険者”に出てくる、赤翼の災禍のこと?」
ルナリスの問いに、少年は真剣に頷いた。
「ぼくは、“赤の部族”に昔から伝わる祈祷師の一族……その末裔なんです」
「赤の部族に祈祷師……」
リヒトが低く呟く。まさかこの少年から、その言葉を聞くとは思いもよらなかった。
「祖父は、赤竜の魂鎮めができなかったことを、ずっと悔やんでいました。……死ぬ前まで、ずっと。ぼくにとって、祖父は最後の家族だったから。その願いを、どうしても叶えたくて……」
声は細いが、そこには幼さを超えた固い決意があった。
「魂鎮めとは、なにを行うの?」
ルナリスが問うと、ザヒールは少し驚いたように彼女を見た。
「ご存じありませんか? 魔物には、魂を入れる器があるんです」
「……魔物の“核”と呼ばれるものだね」
焚火の向こうで弓を磨いていたティオが、顔を上げずに応じた。
魔物や魔獣と呼ばれる存在は、その体内に魂の器――核を宿す。核は魔力の源でもあり、小型から中型の魔物であれば、討伐と同時に霧散してしまう。しかし竜をはじめとする所謂「魔獣」は、その強大さに比例して核の硬度も増し、砕かぬ限り完全には滅せないとされてきた。
もっとも、神話の時代ならいざしらず、現代に魔獣を目にすることは稀である。
そして最後に確認された魔獣こそが、かの「赤翼の災禍」であった。
「炎蹄馬は魔獣ではないのか?」
リヒトの疑問に、ティオは金髪を揺らして首を振った。
「あれは、どちらかといえば精霊とか、幻獣に近い存在なんだ。本来、彼らは核を持たない。だから、話を聞いたときボクも驚いたよ。心優しい霊馬が、そんなことになるなんてね……」
ティオの青い瞳に翳りが宿る。
彼は百年をゆうに超える歳月を生きてきたエルフ族。知識の広さと経験は、この場の誰よりも持ち合わせている。
(炎蹄馬が核を宿さないなら……やっぱり、あの黒い石は赤竜に関わるものなんだろうな)
リヒトは焚火を見つめながら思案した。
黒い石を砕いたのは他ならぬ自分だ。あの時の感触が、まだ手に残っている。そして、苦しむ炎蹄馬に剣を突き刺した感触も。
火に飛び込んだ羽虫が、ぱちりと弾ける。
「“魂鎮め”をされないまま朽ちた魔獣の核は、やがて瘴気を発するようになるんです」
「なんだって……!?」
思わず、といった様子でリヒトの腰が浮いた。ルナリスが胸の前で固く握っていた両手を、さらに強張らせる。
各地を蝕む瘴気の発生源が、魔獣の核だったとは――。あまりに唐突な真実に、二人の表情には驚愕と戸惑いが色濃く浮かんだ。
だが、同時に胸の奥で、希望が小さく灯るのを感じる。
「じゃあ、その“魂鎮め”を行えば……瘴気は消えるのね?」
ルナリスの問いに、ザヒールは静かに頷いた。
「おそらくは」
その一言に、ルナリスの顔から強ばりが抜け、ほっとしたように表情が和らぐ。
「よかった……」
「うん。手がかりどころか、答えが見つかるとは思わなかったよ」
リヒトも笑顔でそう言うと、
「ティオたちがここへ来たのは、瘴気の調査だったな」
視線をエルフの青年へと移し問いかけた。
「そう。エルトノアの領主から、ギルドに直々の依頼があったんだ」
領主エレナもまた、地を穢す瘴気に悩まされていた。グランメル領で炎蹄馬が暴走する以前から、南方のエルトノアではすでに被害が広がっていたのだ。藁をもつかむ思いで、ギルドへと駆け込んだのだろう。
「ボクたちが依頼を受けたのは、水源調査から帰った直後のことだった。“さすらいの冒険者”を頼って渓谷まで来てみたものの、なかなか手がかりが掴めなくてね。まさか後から来た君たちと鉢合わせるなんて、夢にも思わなかったよ」
ティオは肩をすくめて、苦笑をこぼした。
「そもそも、この渓谷を三人だけで探し回るなんて、無茶なのよ」
いつの間にかやってきたグレイスが、湯気の立つ茶のカップを手に言い放つ。ベルはすでに休んでおり、サフィナとオズも敷物の上で寝息を立てていた。騎士組は見張りのため、少し離れた場所から周囲を警戒している。
リヒトは長い溜め息を吐いた。
「なら、俺たちの目的は同じだな」
赤竜の魂鎮め、そして欠片と瘴気の調査。思いがけず一致した目的に、リヒトの口元が自然とほころぶ。
隣で丸い目を瞬かせるザヒールに、リヒトは続けた。
「俺たちも、赤竜が最期を迎えた場所を探しているんだ。それから――」
鞄から小箱を取り出し、欠片を差し出す。焚火の赤に照らされ、黒光りする石が揺らめいた。
「この欠片についても、調べてる」
ザヒールとティオが、ほとんど同時に声を上げた。
「これ……魂の器の欠片です!」
「そんなものを拾っていたのか」
驚愕と緊張が入り混じった声が重なる。「やっぱりそうか」とリヒトは顎を撫でた。
「ザヒール。きみの魂鎮めに、俺たちも同行させてもらえないか」
リヒトは真摯に告げると、まずは自分たちがこの地へ至った経緯を、少年に語り始めたのだった。




