64話 不穏な気配③
あれ以来、サフィナやラセルが交代で見張ってくれているおかげで、ルナリスの夜這いじみた行動は起きていない。
だが彼女は、無意識のうちに欠片を探す仕草を見せたり、夜中に突然目を覚ましては、どこかへ抜け出そうとするらしい。欠片そのものは、彼女の目に付かないよう厳重に布で包み、今はリヒトの鞄の底にしまってある。
ラセルからは「危険すぎる」と何度も窘められたものの、だからこそ他人には預けられない、とリヒトは頑として譲らなかった。
ましてや瘴気の発生に関わるものだ、軽々しく捨てていい代物ではない。
リヒトが欠片を預かって数日が経った。
幸い、今のところなんの異常もない。むしろ何も感じないというのが正しいのだろうか。
もしかすると、ルナリスの持つ“石の声を聞く力”が、彼女に対してだけ作用を早めているのかもしれない。リヒトはそう考えた。
オズが使節団に合流したのは、エルトノア領の中心都市エルドラに到着したのと、ほとんど同じ頃だった。
早馬を任せたアイゼンをねぎらい事情を聞けば、どうやらオズは突貫で魔道具を仕上げてくれたらしい。
「これが、魔力を遮断する小箱です。でも……欠片に効果があるかどうかは、実際に試してみないと」
手渡された箱は片手ほどの大きさで、表面には細やかな術式が刻まれている。
「ただ、一日一回は箱に魔力を注ぐ必要があります」
その言葉に、リヒトは思わず首を傾げた。
「魔力を遮るのに、魔力を流す必要があるのか?」
「はい。対象の魔力を、別の魔力で覆ってしまうんです。一種の結界のようなもので――」
その仕組みは説明以上に複雑そうだった。魔力関係に疎いリヒトには、到底理解できそうにない。
「ありがとう、オズ」
ルナリスが深く頭を下げる。
「私のせいで、面倒をかけてしまったわ。本当にごめんなさい」
「と、とんでもない! ぼくのほうこそ、お役に立てるなら嬉しいです」
恐縮するオズに、リヒトも首を横に振る。
「そう落ち込むことばかりじゃない。炎蹄馬の暴走が明らかになったのも、瘴気の手がかりを掴んだのも、きみの働きがあったからだ」
そう言うと、ルナリスは少しだけ表情を和らげた。
欠片は新たに用意された小箱へと移され、魔力の膜で覆われることになった。
オズはしばらく様子を見るため、共に行動してくれるという。
そのありがたい申し出を一番に喜んだのはサフィナだった。なにしろ、オズがいなければ魔道具を扱える魔力持ちは彼女しかいない。
作り手が近くにいてくれるというのは、サフィナにとっても大きな安心であり、頼もしいことなのだろう。
(これで、多少は時間が稼げたと思いたいけど……)
魔道具といえども万能ではない。早いうちに、欠片そのものを無力化できる解決方法を探さねば。
不安の種が、これ以上育たぬことを祈りながら、一行はエルドラの街門をくぐった。
エルトノア領の中心都市、エルドラ。
その街並みは、まるで絵画の中に迷い込んだかのようだった。
赤や橙の屋根瓦が幾重にも重なり、石畳の路地が丘の傾斜に沿って折り重なるように続いている。街を囲むように巡る幅広の運河では、荷を積んだ小舟や人を乗せた渡し船が忙しく行き交っていた。穀物を積んだ袋や樽が次々と荷揚げされ、商人たちの威勢のいい声が飛び交う。
エルドラの交易の中心は、なんといっても豊かな穀物。運河沿いの倉庫には金色の小麦袋が山のように積まれ、そこからさらに各地へと運ばれていく。粉挽き小屋では石臼の音が絶えず響き、焼き菓子や揚げ菓子を売る屋台の甘い香りが通りを包み込んでいた。
また、この土地ならではの編み細工も街の名物だ。市場には麦わらを編み込んだ籠や帽子が並び、旅人が土産として手に取っていく姿が見える。軽やかで丈夫なそれらは、農作業にも日常にも欠かせぬ生活の道具だった。
城壁の外、運河の向こうには一面の麦畑が広がり、風にそよぐ黄金の穂が波のように揺れていた。陽光を浴びてきらめくその光景は、まさに「豊穣の都」と呼ぶにふさわしいものだった。
「あとひと月もすれば、収穫祭が始まるな」
「今年はカボチャの出来がいいらしいぞ。この時期にエルドラへ来られて良かったなぁ」
屋台を見渡しながら、アイゼンとマシューは楽しそうに会話を弾ませていた。特にマシューは料理人の血が騒ぐのか、収穫祭の到来を人一倍心待ちにしているようだった。
「ルナリス様、あそこに並んでいるパンを見てくださいよ。あんなにベーコンとチーズが乗っていて……あぁ、見てるだけでお腹が空きます!」
「まぁ、美味しそう……! それに、ノクティリアでは手に入らない野菜や果物がたくさん。改めて、この国の豊かさには驚かされるわね」
「収穫祭では、今よりもっと屋台が並ぶそうですよ。楽しみですね!」
ルナリスとサフィナも、心を躍らせながら屋台を眺めていた。視察の時期がずれ込んだおかげで、ルナリスたちはこの地で「豊穣」の月を迎えることになったのだ。
隣国の使節団を迎えるにあたり、領主は今年の収穫祭をさらに盛り立てようと張り切っているらしい。ルナリスたちのもとにも先日、収穫祭への招待状を携えた使者が訪れていた。まだ街へ向かっている道中のことで、なんとも気の早い誘いではあったが、ルナリスは快く受け取った。
緩やかな石畳の坂を上りきると、視界に広がったのは領主の館を中心に構える貴族街。
一行が滞在するのはグランメル領のときとは違い、領主邸ではない。王家がこの地に所有する別荘を借りる手はずとなっている。
貴族街のさらに奥、小さな林に囲まれたその別荘の前に到着すると、そこには数人の兵を伴った若い女性が待っていた。
この豊穣の地を治める領主、エレナ・グランメル。先代である父を亡くした後、まだ若いながらも聡明さと賢さで領をまとめ上げた女性であった。
礼を交わし、リヒトの紹介を受けてルナリスも挨拶をする。エレナは差し出された手を柔らかに握り返し、微笑んだ。
「出迎えが遅れてしまい、申し訳ありません」
街では収穫祭を前に、交易が一段と盛んになっている。エルドラは南方交易の要衝でもあり、賑わいは日に日に増していた。そんな中で兵を連れて街中に赴くのは、混雑を増すばかり――エレナはそう判断し、ここでの出迎えを選んだのだ。
「どうぞお気になさらずに。こちらこそ、お忙しい折にお手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
ルナリスがそう詫びると、エレナは小さく首を振り、慌ててその言葉を制した。
やがて彼女の視線はリヒトへと移り、ふわりと笑みを深める。
「ご婚約、おめでとうございます。ご縁を結ばれた方が、これほど素敵な女性だなんて、羨ましい限りですわ」
エレナの言葉に、リヒトはわずかに顔を赤らめると、嬉しそうに「ありがとう」と答えた。




