62話 不穏な気配①
※「豊穣」の始月=9月
グランフィルドの街を発ってから、幾日。
使節団の一行は、ついにエルトノア領へと足を踏み入れていた。
領境を越えてほどなく、大地の景色は少しずつその色を変えてゆく。
緑に覆われた牧草地帯は、やがて果てしない穀倉地帯へと姿を変える。一面を染めるのは、金色の波。
たわわに実った小麦が風に揺れ、さざめくたび、陽光を反射してきらめく。
まるで大地そのものが黄金に輝いているかのようだった。
あとひと月もすれば、「豊穣」の始月が訪れる。この国で最も喜びに満ちる季節――収穫のときだ。
長引いた旅路に疲れはあったが、この光景を目にできるのは思いがけない幸運だった。
しかもこの地方では、小麦だけでなく、豆や果実、芋類といった作物までもが育てられている。
ノクティリカへ出荷される作物の量は、諸領の中でも随一を誇るという。
「この辺りも、もう刈り取りが始まりますね」
馬上から周囲を眺め、ラセルが目を細める。
その言葉通り、遠くの畑には鍬や鎌を手に働く農夫たちの姿があった。
額の汗をぬぐいながらも、どこか誇らしげに見える。大地が人に与える恵みを、確かにその手で掬い取っているのだ。
「……私、この国へ来るまで、麦の収穫が夏だなんて知らなかったわ」
「まぁ、ノクティリカとの環境の違いもあるだろうしね」
ルナリスが感嘆の声を漏らすと、リヒトが穏やかに応じる。
無知と捉えられかねない言葉だが、それには理由がある。
ノクティリカで育てられている麦は、数世代をかけて寒冷に適応した特異な品種なのだ。実りまでに通常の倍以上の年月を要し、収穫量も決して多くはない。
国民の口をすべて満たせるほどではなく、土地に余裕のある貴族が、趣味と道楽を兼ねて栽培するに過ぎない。
だからこそ、彼女にとって、目の前に広がる黄金の大地は衝撃的だった。
「これが本来の姿なのね」
ルナリスは思わず、息をのんで呟いた。
隣ではサフィナが、夢見るように笑みを浮かべる。
「いったい、どれだけのパンが焼けるのでしょう……」
そんな会話を弾ませながら、使節団は進む。
風にそよぐ麦のざわめきが、楽しげに彼らを歓迎しているかのようだった。
やがて旅路の正面に、街並みが見えてきた。グランメル領とエルトノア領の中継地点であるこの街の名は「黄金の扉」。まさに、麦穂の実り溢れるエルルトノア領への玄関口らしい名前だ。
使節団は、ここで二日の休養を取ることになっている。
きらめく大地を背景に、ルナリスは馬の腹を軽く蹴った。
胸の奥が弾むのを抑えきれずに。
オルドールの街は、黄金色の穀倉地帯のただなかに築かれている。
街道へと続く大門の上には、金色の麦穂を象った彫刻が掲げられ、訪れる者を迎え入れるかのように陽光を反射して輝いていた。
門をくぐれば、石畳の大通りがまっすぐ中心部へ伸び、両側には穀物を積んだ荷車や香辛料の樽、干し肉を吊した屋台が並ぶ。通りを行き交うのは旅商人や農夫だけではない。北の森から来たというフェンライクの毛皮商や、草原の馬を引き連れたグランメルの騎馬隊員まで、あらゆる姿が混じり合っていた。
道の途中には小さな広場が点在しており、木組みの屋台が円を描くように立ち並んでいる。そこからは、焼きたての穀物パンの香ばしい匂いや、甘く煮詰めたジャムや果実酒の匂いが漂ってくる。子どもたちが追いかけっこをしているかと思えば、旅芸人が笛を奏で、群衆を引き寄せていた。
街の奥には穀物倉庫が幾棟も連なっている。遠くを見やれば、黄金の大地と、境を成す緑濃き牧草の丘が交わり、まさに緑と金の境目にふさわしい光景が街全体を包み込んでいた。
一行は、街でも指折りの格式高い宿屋を丸ごと借り受けた。
とはいえ、そこはあくまで旅人向けの宿。
護衛の騎士たちが全員詰められるほど広くはなく、また門番を立てて見張るような振る舞いは、主人に「宿の体裁が悪くなる」と渋い顔をされてしまった。
結局、数人の騎士が交代で周囲を警戒する形で妥協することとなる。
「宿は貸し切って頂いたし、まわりには巡回の兵もいるのでしょう? なら、大丈夫よ」
「うん。それに、俺たちの部屋は隣同士だから。なにかあれば、すぐに対処できる」
護衛たちにそう言い聞かせたルナリスとリヒトだが――その判断が、のちに思いも寄らぬ事態を招くことになるとは、ふたりとも予想してはいなかった。
その夜。
リヒトは与えられた部屋の寝台に身を横たえていた。
窓の外には、煌々と照る満月。
青白い光が床にまで差し込み、室内をほのかに照らしている。
静謐で、美しい夜。
そのはずなのに、なぜか眠気は訪れず、ただ心臓の鼓動ばかりが耳に響いていた。
(……眠れない)
今夜は少しばかり気温が高い。昼間の熱が石造りの壁にこもり、室内はむわっとした空気に満ちていた。窓を開けられれば、ひとすじの夜風が流れ込んでくるのだろうが、防犯のために固く閉ざされていた。寝台に横たわっているだけで背中や首筋に汗が滲み、薄衣が肌に張りつくのが気に障る。
熱のこもった夜気に包まれて、まぶたは一向に重くならない。むしろ意識だけが冴えて、焦燥が胸をじりじりと焼いていた。
諦めて本でも手に取ろうかと、身を起こしかけたその時。
小さく、木の扉を叩く音がした。
こんな夜更けに?
眉をひそめ、低く問いかける。
「誰だ」
短い間をおいて返ってきたのは、思いがけない声だった。
「……私」
ルナリスだ。その声は静かで、すこし沈んでいるようにも聞こえた。
何かあったのだろうか。胸騒ぎを覚えながら扉を開けると、彼女はするりと滑り込み、後ろに回した手で扉を閉ざした。
振り返った彼女の瞳は、妖しく揺らめいている。まるで菫青石をそのままはめ込んだかのような煌めきに、自分の姿が映し出されているのを意識すると、心落ち着かない気持ちになった。
言葉もなく微笑まれて、息を呑んだ。
いつもの彼女とはどこか違う。
「あの……ルナリス?」
問いかけても、返事はない。
ただ微笑とも溜息ともつかぬ吐息を洩らしながら、ゆらりと歩み寄ってくる。
彼女の姿は、薄手のネグリジェ一枚という危ういものだった。
むき出しになった首筋や肩、わずかにずれた胸元から、雪のように白い肌が覗いている。
「ど、どうしたの……」
リヒトは思わず声を裏返らせた。
だがルナリスは、まるで言葉など耳に入っていないかのように、身を寄せてくる。
薄い布越しに柔らかな温もりが触れ、甘い香りが鼻を掠める。
やはり、おかしい。
頭のどこかで警鐘が鳴っているのに、視線は逸らせない。
「ルナリス、やめ――」
制しようと名を呼んだ瞬間、彼女の唇が啄むように触れた。
くらくらと眩暈がするほどの甘い吐息が、唇にかかる。
さらに細い指が胸元へと伸び、自らレースを押し下げようとする。覗いた薄紅の色に、リヒトの思考が凍り付いた。
――このままでは。
「ね、姉さん!!」
縋るように叫んだ声が、静かな夜に響いた。
ルナリスの肩がびくりと震え、その瞳から妖しい光がすっと消えてゆく。
途端に、はっと我に返った彼女は自らの姿を見下ろし、次の瞬間、真っ赤になって飛び退いた。
「わ、私……っ、な、なんでこんな……!?」
慌てて胸元を掻き合わせるルナリス。
リヒトは視線を逸らし、必死に言葉を繕った。
「ね、寝ぼけてたんだよね……? そうだよね?」
ルナリスはしばし黙り込み、耳まで赤く染めながら小さく呟く。
「そ、そうね。……そういうことに、しておいて」
曖昧な返事に、よもや本当に寝ぼけていたのでは、という思いさえ湧き上がってくる。それにしては、大分明確な動きを見せていたが。
ルナリスは、ベッド際まで追い詰められていたリヒトの姿をちらりと見ると、美しい顔に羞恥を滲ませた。その様子は、自分の行動が信じられないとでも言いたげに見えた。
「と、とにかく、ごめんね!」
掠れた声でそう言い残し、彼女は逃げるように部屋を飛び出していった。
閉ざされた扉を呆然と見つめ、リヒトはその場にへたり込む。
「……なんだったんだ、いったい」
唇に残る熱は冷めず、脳裏にはなお、月光に照らされた彼女の姿が焼き付いて離れない。
月のように白く、妖しく美しいその肢体。
それは、健全な若者の心を大いに悩ませるには、十分すぎるものだった。




