106話 ひとときの休息③
R15注意
灼熱の風が熱気を運ぶ午後。
リヒトは相棒の狼と共に、オアシスの水辺にいた。
大岩に囲まれたそこは天然の沐浴場となっており、宿からほど近い穴場で、人の姿はない。リヒトは血で固まったゼファーの毛を手早く洗い流しながら、何度目かのため息をつく。
「こら、暴れるなって。もう少しで終わるから!」
巨体の狼を押さえつけるのは至難の業で、洗いきった頃にはリヒトの方が汗だくになっていた。
濡れた黒い毛並みをブルッと震わせたゼファーは、お返しとばかりに大量の水を浴びせ、満足げに走り去っていった。
「おい……!」
濡れ鼠になったリヒトは苦笑する。
どうせ自分も水に浸かるつもりだったので、濡れたところで問題はない。
水と汗で張り付いたシャツを脱ぎ捨て、岩場に放る。
上半身裸のまま水に入り、腰ほどの深さへ進むと、両手で顔を洗った。ひんやりとした水が火照った肌を冷まし、思わず息が漏れる。
そのとき、
「見つけた。こんなところにいたのね」
耳に馴染んだ声が、不意に背後から落ちてきた。
「うわぁっ!?」
反射的に胸を両腕で隠したまま振り返る。
岩の陰から現れたのは、ルナリスだった。
「な、なんでここに……!?」
「なんでって、声が聞こえたから」
そういう意味ではない、と言い返す前に、ルナリスはすでに岩に腰かけ、足先だけを水へと沈めていた。
細くて白い足は、灼熱の陽に晒されても透き通るように美しい。
「そんなに恥ずかしがることないじゃない。“日本”にいた頃なんて、お風呂上がりに平気で歩き回ってたのに」
「いつの話だよそれは!」
異世界での記憶を持ち出され、リヒトは耳まで赤くなる。
あの頃は姉弟として暮らしていたし、思えば子供であった。
だが今は違う。
この世界に戻り、王家としての価値観と――何より男としての意識が芽生えた今となっては、人前で裸になることはよろしくないと理解している。ましてや、好いた女性を前にしてなど。
しかしルナリスは、そんなリヒトの羞恥を楽しむように足をぱちゃぱちゃと動かしていた。
「冷たくて、気持ちいいわね」
「……そーですね」
リヒトは観念して沐浴を続ける。
彼女の無邪気な笑顔を見れば、何も言えなくなってしまうのだ。
熱い風が二人のあいだを吹き抜け、水音だけがしばらく響いた。
「リヒト……」
ふいに、小さく名前を呼ばれる。
「ん?」
「ほんとうに、私でいいの……?」
その一言で、リヒトの動きが止まった。
ルナリスは視線を外さず、もう一度問いを重ねる。
「本当に、私が……婚約者でいいの?」
頭のどこかが拒絶するように、思考が止まる。
あまりに突然の問いかけに、言葉が掠れた。
「な、んで……そんなこと……?」
心変わりでもあったのか。
リヒトの胸に微かな恐れが走る。
ルナリスは、背を向けるリヒトの背中を静かに見つめていた。
そして、
「あのね――」
彼女は岩から降りると、水の中へ入ってきた。白いドレスの裾が水面に広がり、揺れる。
気づけば、そっと背中に手が添えられていた。
その温かさに、リヒトの肩がびくりと震える。
「今回のことで、思い知ったの」
ルナリスの声は、かすかに震えている。
「私……戦えないし、魔力もない。なんにも、リヒトの助けになれなかった……」
「そんなこと――!」
振り返れば、美しい菫青色の瞳がまっすぐ自分を射抜いていた。
「足だって、引っ張ってばかりだし……」
「違う。ルナリスだって、自分にできることをしてくれた。あの杖だって、きみの助けなしじゃ持ち帰れなかった」
細い肩に手を置くと、ルナリスは俯いて、ぽつりと言った。
「……嫉妬だって、いっぱいしたの」
「え」
思わぬ告白に、つい間の抜けた声が出てしまう。
彼女の耳元は真っ赤に染まっていて、おそらく決死の勇気で打ち明けてくれただろう事実に、胸がいっぱいになってしまう。
やがて、リヒトは堪え切れずにとうとう噴出した。
「ちょっと、なんで笑うのよ!?」
「ごめん、ごめん……可愛くて」
リヒトは赤い顔を上げたルナリスを抱きしめた。
「そんなの、俺だって一緒だよ。きみが誰かと話してると気になるし……嫉妬だって散々してる」
優しく背を撫でると、ルナリスはわずかに身を震わせる。
だが彼女は、そこで終わらなかった。
リヒトの腕の中からそっと顔を離したかと思うと、逆に両腕を彼の首へまわし、そのまま唇を押し付けるように重ねてきた。
それは、これまでの軽い触れ合いではなかった。
舌先がかすかに触れ、探るように絡みついてくる。
「……っ」
息が止まる。
唇が離れても、リヒトは言葉を紡げなかった。
「わ、私が……こういうことを望んでる……は、はしたない女でも……いいの?」
すぐ目の前の顔は、熱にとろけるように甘い。
ルナリスはさらに追い打ちをかけるように囁いた。
「前に、オルドールの宿屋であったこと……覚えてる?」
「う、ん」
「あれは……欠片のせいだって思ってた。でも、もしあの欠片が……私の願望を……増幅させただけだとしたら――」
言葉の意味に気づいた瞬間、リヒトはごくりと喉を鳴らす。
彼女は、もともと自分を求めていたのだ。
触れたい、触れられたい。そんな欲を抱えて。
ルナリスは、それ以上なにも言わなかった。だが、潤んだ瞳が、彼女の願いをはっきりと伝えていた。
「ん……っ!」
たまらず、リヒトは細い腰を引き寄せ、深く口づけた。
舌が触れ、絡み、熱が流れ込む。
吐息が混じり、唾液がこぼれても構わなかった。
互いの胸が触れ合って、柔らかい双丘の形と、中心の小さな蕾がくっきりと伝わる。
理性の鐘がどこかで鳴っていたが、届かない。
ただ互いを求めるままに、何度も、深く、貪るようにキスを重ねた。
どれほどそうしていたのか。
ようやく唇が離れると、ルナリスは息を整えながらリヒトの胸に額を預けてきた。
「リヒト……」
囁く声は甘く、とろけるようだった。
このまま、何もかも忘れて、彼女のすべてを奪ってしまえたら。そんな衝動を必死に抑えながら、リヒトは震える息を吐く。
「これ以上は、もう――」
「分かってる。でも……もう少しだけ、側にいさせて」
ルナリスは穏やかな波打ち際に腰を下ろすと、リヒトの腕を掴んで引き寄せた。
彼女の濡れた髪が肩に触れるたびに、ひやりとした感触が逆に火照りを煽る。
さっきまでの深いキスの余韻。
そして、耳元で落とされる甘い吐息。
リヒトは顔を上げ、空を仰いだ。
(……まずい。これは、本当にまずい……!)
抑えようとしても、本能的に身体がどうしようもなく反応している。
だが、ルナリスはその事情をまったく分かっていない。それどころか、無邪気にリヒトの腕へ頬を寄せると、
「ねぇ、もう一回だけキスして」
と、上目遣いで見上げてきた。
「……はい」
妙に事務的な返事が漏れて、チュッと軽いキスを送る。それでも嬉しそうに微笑むと、静かに立ち上がり砂を払った。
「そろそろ戻りましょうか」
「いや……先に、行っててください」
言えない。
言えるわけがない。
自分の身体が立ち上がれる状態ではないことなど。
「どうしたの? まさか、どこか痛めてるとか……」
「ち、ちがう! とにかく今は――」
「もしかして……無理させちゃった? 水も冷たいし……」
「いや、そうじゃなくて……!」
リヒトは座ったまま首を横に振る。
「まだ、身体も洗えてないんだ……女性がいると洗いづらいだろ」
「あっ……!」
咄嗟についてしまった嘘だが、効果はてきめんだったようだ。
ルナリスは顔を赤く染めると、「気が利かなくてごめんね」と笑った。
「じゃあ……またあとで。ちゃんと、戻ってきてね」
軽く手を振り、去っていく後ろ姿。
その白いドレスが岩陰に消えるまで、リヒトは一歩も動けなかった。
そして完全にひとりになった瞬間、リヒトは両手で頭を抱えた。
(……はぁぁ……死ぬかと思った……)
身を焦がす炎は、灼熱の太陽よりずっと熱い。
しばらく立ち上がれそうになかった。




