99話 再会③
アーチから少し離れた柱の根元に、一行は腰を下ろしていた。
聖堂内で焚かれた小さな炎が、輪になるように集まった面々の顔を淡く照らす。しかし、その中にリヒトの姿はなかった。
彼は、光の届かない柱影に身を寄せ、冷たい石の円柱へ背を預けていた。その腕には、ぐったりと力の抜けたルナリスの身体が、まるで壊れ物のように抱かれている。
彼女の呼吸は落ち着いている。
傷の具合は、つい先ほどラセルとベルが確かめてくれた。不思議なことに、血に塗れたドレスの下には、傷ひとつ見当たらなかった。
返り血などではない、負傷による血の付着なのは明らかだった。癒えるにしても、こんな短期間で傷跡さえ残らないなど考えられない。だが理由はどうであれ、ルナリスが無事に生きていることは事実だ。今は、それだけでよかった。
ただひとつの気がかりを除いては――。
リヒトは穏やかに寝息を立てるルナリスを見下ろす。
ふと、彼女の息遣いがふっと深くなり、閉ざされていた瞼がわずかに震えた。
すぐそばに控えていたゼファーも顔を寄せる。
黒狼の毛並みにも血の痕は残っているが、やはり傷は見当たらない。乾きかけた血が毛先を固めているその姿は、彼がどれほど彼女を守ったかを物語っていた。
ゼファーの鼻先がルナリスの頬をくすぐる。その微かな刺激に合わせるように、彼女は静かに息を漏らした。
ゆっくりと瞼が上がる。
長い睫毛に縁どられた菫青色の瞳が揺らぎ、最初に映し出したのは、リヒトの顔だった。
その光は懐かしさとも安堵ともつかぬ、柔らかな輝きを宿していた。
リヒトは張りつめていたものが溢れ出しそうになり、口元を歪めて堪える。
「ルナリス……!」
名前を呼べた。それだけで胸の奥が震えた。
ルナリスは微笑んだ。
だが、その笑みに宿るのは純粋な喜びだけではない。
罪悪感。恐れ。迷い。
目の奥に沈む影を、リヒトは見逃さなかった。
「リヒト、わたし――」
弱々しく伸ばされた白い手を、リヒトはそっと取った。
そして、そのまま細い身体を胸へ抱き寄せる。
「……いい。なにも言わないで」
静かな声。その響きには揺るぎない想いが込められていた。
ルナリスが自分を責めていることなど、表情だけで分かった。けれど、彼女が謝る必要のあることなど、ひとつとしてない。
だから、まだ何か言おうと震えるその唇を、迷いなくふさぐ。
ふたりの間に落ちるのは、言葉ではなく温もり。
短い、けれど確かな触れ合い。
唇が離れた瞬間、リヒトは彼女の耳元にそっと囁いた。
「――もう、不安にさせないから」
その優しい声に、ルナリスはただ黙って頷いた。
背中に回された腕が、ぎゅっと力を込める。
もう離れない。離したくない。
そんな想いが、ふたりを強く強く結びなおした。
リヒトの腕の中で、ルナリスは途切れ途切れにこれまでの出来事を語り始めた。
崩落に巻き込まれ、ゼファーと共に命さえ危ういほどの傷を負ったこと。
意識を失い、目覚めたときには、怪我が完全に癒えていたこと。
その後、ゼファーと歩いた暗い地下通路での出来事。
一人と一匹の冒険は、再会が奇跡と言えるほど過酷なものだった。
こうして再び抱きしめられる距離に戻れたのは、ゼファーの献身と、助けを信じて進んだルナリスの勇気があったからだ。
彼女を諦めないでよかったと、リヒトは胸の底から思った。
「でも……あれだけの大怪我が治るなんて……」
ルナリスが呟くように言い、リヒトも怪訝そうに眉を寄せる。
「この遺跡に、そういう魔術が仕掛けられているとか?」
「分からないわ。私は、魔術のことには疎いから」
ルナリスは自嘲気味に微笑んだ。
魔術が発展したノクティリカの生まれでありながら、彼女は魔力を持たない。その類の話題になると、家族は気を遣って彼女の耳に入らないようにしてきたし、ルナリス自身も魔力を持てなかった罪悪感から自然と距離を置いてきた。
「もっと学んでおくべきだった。縁がないからって、遠ざけるんじゃなくて……」
「きみが生きてるなら、それで十分だよ。俺だって魔術はからっきしなんだし」
「それは……あなたはウォルフワーズの人だもの」
少し唇を尖らせるルナリスに、リヒトは思わず笑みを浮かべた。
「これから二人で知っていけばいいさ」
その言葉に、ルナリスはハッと目を見開き、ふわりと笑った。
雪解けのように自然で、温かい笑みだった。
「皆にも……お礼を言わなくちゃ」
ルナリスは身じろぎしながら、リヒトの腕から離れようとした。
細い背中を支えながらその動作を見守っていたリヒトだったが、「いや、その前に……ひとつ」と、どこか気まずそうに言葉を切った。
ルナリスが首を傾げる。
視線に促され、リヒトは小さく息を吸って続けた。
「きみが気づいているかは分からないけど……」
緑の瞳が、真剣さを帯びる。
「――あの核の欠片が、きみに取り憑いているみたいなんだ」
しんと、静けさが広がる。
背後で焚火の爆ぜる音だけが、二人の間の空気を震わせていた。




