98話 再会②
赤く染まったドレスの裾が、冷たい石畳の上に広がっている。
駆けつけたリヒトの目に飛び込んできたのは、蹲るルナリスの姿だった。
その傍らで、ゼファーが太い四肢を広げ、暗闇の奥を睨み据えている。金の瞳が一瞬だけリヒトを捉え、「やっと来たか」と言わんばかりに低く鼻を鳴らした。
胸の奥が凍りつく。
だが、ルナリスがゆっくりと顔を上げ、その紫の瞳にまだ確かな光が宿っているのを見た瞬間、リヒトの脚は迷いなく動いた。
(生きてる!)
名を呼んで、彼女の細い肩に手をかける。
そのまま抱きしめてしまいたかったが、彼女の体がどれほど傷ついているか分からない。リヒトは血に濡れたドレスを見つめ、声を震わせた。
「どこを怪我してる? 傷の状態は――」
返答の代わりに、ルナリスの肩が小刻みに震えた。
額から大粒の汗が滴り、唇が蒼白に染まっていく。
「だめ、リヒト……」
まるで、彼の手から逃れるように、ルナリスは身を捩った。
「私から離れて……!」
刹那、彼女の体から黒い靄が噴き上がった。
息苦しくなるほどの瘴気が、空気を押し潰すように広がる。
「これは……瘴気っ!?」
「お願い、はなれて……リヒト!」
ルナリスは自らの体を抱き締め、震える唇で必死に言葉を紡ぐ。その姿はまるで、身の内に潜む何かと闘っているかのようだった。
危機はなおも続いた。
「殿下! 前方にスケルトンが!」
ゼファーと並んで前を警戒していたアイゼンの声が響く。
仲間たちが一斉に武器を構え、リヒトも警戒の目を向けた。
暗闇の奥で、青白い光が揺れる。骨の軋む音とともに、無数の骸骨の兵が姿を現す。
それは、通路を埋め尽くすほどの軍勢だった。
「せ、聖堂へ逃げましょう!」
「殿下はルナリス様を!」
ザヒールの声がこだまする。ラセルとマシューが前線へ飛び込み、剣を振るった。
斬り伏せられた骨が砕け散るが、骸骨たちはすぐに身体を再構築し、幾度も立ち上がる。
「ベル! ザヒールを頼む!」
リヒトはザヒールを後方へ下がらせると、ためらう暇もなくルナリスの身体を抱き上げた。
瘴気は彼女のみならずリヒトをも侵食しようと迫りくるが、そんなことはどうでもよかった。
「リヒト、離して! このままじゃ、あなたにも瘴気が――!」
「いいさ。君からなら、瘴気だろうが何だろうが貰うよ」
その言葉に、ルナリスは息を呑んだ。美しい紫の瞳が、潤んで揺れる。
「少し走るよ。傷に障ったら、ごめん」
リヒトはそう告げると、来た道を引き返すように駆け出した。
腕の中の彼女が驚くほど軽く感じられ、存在を逃がさぬよう腕に力を込める。
「聖堂まで走るぞ!」
背後で、骨の砕ける音と剣戟が重なり合う。
騎士たちの怒号、ゼファーの咆哮が闇に響く中、リヒトはただ、ルナリスの体温だけを確かめるように抱き締め続けた。
荒い息を吐きながら、リヒトは石段を駆け上がった。
抱き上げたルナリスの体は、時おり小さく痙攣している。瘴気はなおも揺らめき、黒い煙のようにふたりの周囲を漂っていた。
やがて視線の先に光が見えた。
暗闇の終端、古びた石のアーチから微かな光が漏れている。
「みんな、急げ!」
リヒトの叫びとともに、全員が一斉に駆け込んだ。
アーチを抜けた瞬間、肌を撫でる空気が一変する。息苦しいほどの瘴気さえ、音もなく溶けていった。
背後の通路から、骨の足音が響いた。
スケルトンの群れが闇を割って現れる。
「あいつら、まだ追ってきてる!」
悲鳴にも似たベルの声が響く。
だが、聖堂の敷居を跨いだ途端、彼らの身体が軋みを上げた。
骨が、砂のように崩れていく。
武器を握る指が音を立てて砕け、頭蓋が崩落し、足元から風化していく。
残骸と化した骨が床に散らばると、静寂だけが残った。
なおも通路の奥に残るスケルトンたちは一歩、また一歩と下がり――やがて、その場から姿を消した。
「やっぱり……この聖堂は何かに守られているんだ」
ザヒールが呟いた。彼の瞳には驚愕と敬意が入り混じっている。
一行が安堵の表情を浮かべる中、リヒトは腕の中のルナリスを見下ろした。
彼女を苦しませていた瘴気は、すっかり鳴りを潜めている。神聖な力が、穢れを抑えてくれているのだろう。
「ルナリス……聞こえる?」
静かに呼びかけるも返事はない。ただ、彼女の胸は確かに上下していた。
間に合った。
その実感が胸に広がった瞬間、リヒトは深く息を吐いた。
崩れ落ちた骨の残骸が、差し込む光の中で静かに塵となって舞う。
それは、まるでこの地に染みついた死の記憶が、ようやく安息を得たかのように見えた。




