97話 再会①
ルナリスたちが地下世界を彷徨っていたその頃。
フェニアの北東部、連なる断崖の谷間にひっそりと佇む古びた神殿へ、リヒトたちは辿り着いていた。
神殿は、岩山を削って造られた巨大な建造物だった。
石壁は、幾千年の時を耐え抜いてきたかのように重厚で、かつて栄華を極めた文明の名残を思わせる。
正面には、天を仰ぐように聳える列柱。精緻な浮彫りが施され、その一本一本が古代の神話を物語っていた。
乾いた砂風が吹き抜け、柱の陰に白い砂塵が渦を巻く。太陽は真上に昇り、眩い光が断崖を照らしていたが、岩の影がわずかに射光を遮ってくれるのが救いだった。
まるで一切の侵入を拒むかのように閉ざされた、石造りの大扉。
その前に立ったリヒトとザヒールは、扉の中央にある奇妙な窪みに気づいた。
輝きを象ったような菱形――ザヒールが携えていた石板と同じ形だ。
「……そうか。この石板は、鍵だったんだな」
リヒトの言葉に、ザヒールが頷く。
静かに石板を嵌め込むと、低く唸るような地鳴りが辺りに響いた。
長きにわたり封じられていた神殿の扉が、重々しい音を立てて開いていく。
閉ざされていた空間に、久方ぶりの太陽が差し込んだ。金色の粒子を帯びた砂埃が宙に舞い、光を受けて幻想的にきらめく。
やがて扉が開き切ると、神殿の中には耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。
「行こう」
躊躇なく歩を進めるリヒト。
頼もしくもあるその横顔を見つめながら、ベルは密かに不安を抱いていた。
彼の瞳が、また「あの頃」に戻ってしまいそうで、怖かったから。
ベルがリヒトと出会ったのは、三年ほど前のことだ。
駆け出しの冒険者だった二人は、ギルドを通じて知り合い、互いに助け合ううちに自然と良き仲間となった。
彼がウォルフワーズ王家の第三王子であることには、早い段階で気づいていた。
初めは、身分を隠しての道楽かと呆れていたが、どんな小さな依頼にも真剣に向き合う姿勢や、誰に対しても隔てなく接する姿を見ていくうちに、いつしか心を奪われていた。
大樹の葉を映したかのような緑の瞳は、いつも優しく穏やかで――。
しかし、ある日を境にリヒトは変わった。
久しぶりに彼がギルドへ姿を現したのは、「第三王子が病に伏している」という噂が広まりはじめた頃だった。
再会を喜んだのも束の間、リヒトの瞳には、深い絶望の影が宿っていた。いつものように笑おうとしても、口元がうまく形を成さない。その無理をして作った笑みが、何よりも痛々しかった。
リヒトの悲しむ顔を見たくない。
彼の笑顔を、取り戻したい。
その願いは、明確な恋心へと変わった。
今のリヒトは、あの頃と同じ瞳をしている。
気丈さの裏に隠した焦りと悲しみ。
僅かな希望が彼を突き動かしているが、それが途絶えた時、リヒトは再び笑顔を失ってしまうだろう。ベルには、それがなによりも恐ろしかった。
リヒトが「運命そのもの」と呼んだルナリス。彼の希望も、絶望も、すべては彼女の存在にかかっている。
悔しいけれど、完敗だった。
ルナリスに対してわだかまりがないと言えば噓になる。リヒトへの想いが、すぐに消えるものではないことも。
けれど、今は彼女を救いたい。そして謝りたかった。
歩き出したリヒトの背を追いながら、ベルは手にした槍の柄を、ぎゅっと握りしめた。
重く閉ざされた扉の向こうには、息を呑むほどの光景が広がっていた。
天井の果ては闇に溶け、無数の柱が地面から伸びている。そのどれもが、古代の祈りを封じたかのように荘厳で、時の重みを纏っていた。
柱の間を通る光が、舞い上がる砂粒を照らして淡く金に染めた。
そこには生き物の気配がない。だが確かに、「何か」を感じる。
「長年放置されていた割には、魔物の気配がないな」
リヒトが静かに呟くと、隣を行くラセルが小さく頷いた。
「ここは……聖堂のようですね」
「神聖な気を感じます。まるで、何かに守られているような……」
そう言ったザヒールの顔には、複雑な感情が浮かんでいる。
赤の部族が代々守り続けてきた聖域。祖父たちが命を救われたという神殿。
その場所に、今こうして自らの足で立っている。まるで数奇な運命に導かれたように。
「祖父は、この神殿に何を残していったのでしょう……」
「答えはすぐに分かるさ。でもその前に、ルナリスたちを探さないとな」
一行は慎重に奥へと進んでいく。やがて、壁の向こうに二つの大きなアーチが現れた。
巨大な石造りの開口部で、縁には古代の文様が精巧に刻まれている。一方はさらに奥の空間へと続き、もう一方は、緩やかな下り坂となって闇の底へと伸びていた。
(ルナリスたちを探すなら、地下だ)
リヒトは一瞬の迷いもなく、闇の方へと足を踏み入れる。
だが、その瞬間、背後からザヒールの声が響いた。
「気をつけてください。……空気が、変わりました」
リヒトもすぐにそれを察した。
聖堂に満ちていた清浄な気配は跡形もなく消え失せ、代わりにひやりとした空気が肌を撫でる。
石で囲まれた道を進むにつれ、空気は澱み不穏さを増していく。
通路を抜けた先には、古代都市の名残を思わせる光景が広がっていた。崩れかけた柱が並び、壁面には風化したレリーフが微かに浮かび上がっている。足元で踊る微光虫が、漂う砂塵を淡く照らし、かつてここに人々の営みがあったことを、幽かな記憶のように語っていた。
「……すごい……これが、地下都市?」
ザヒールが呟くように言い、ベルが息を呑む。
しかしリヒトは、景色よりも別のものに集中していた。
足元の砂を踏みしめ、周囲の空気を読む。澱んだ空気の奥に、確かな気配があった。
淡い光と深い闇が交錯する中、リヒトは無言のまま剣の柄に手を添える。
その仕草に、ラセルたちもすぐに気付いた。武器を構え、ザヒールを庇うようにして隊列を整える。
「今……なにか、聞こえなかったか?」
リヒトの声が低く響いた。
全員が息を潜め、耳を澄ます。
――ウォォーン。
こだまする獣の遠吠えが、静寂を裂くように響き渡る。
リヒトの瞳が大きく見開かれた。
次の瞬間、思考よりも先に体が動いていた。
「ゼファーだ!」
叫びとともに、リヒトは中央の通路へと駆け出す。
遠く響いたその声を、聞き間違えるはずがない。
それは、ずっと共にあった狼――リヒトにとって唯一無二の相棒の声だった。




