95話 砂漠の迷宮③
――いっそ、気を失えたら楽だったのに。
砂の上とはいえ、叩きつけられた衝撃はすさまじく、肺の奥に残った空気をすべて奪い取られる。
息ができない。
追い打ちをかけるように、上から押し寄せた砂の奔流が、瞬く間に身体を覆い尽くした。
口も、鼻も、塞がれる。
圧迫される胸。全身を締めつける重み。動かそうとした腕は、砂の中でじりじりと沈んでいった。
暗闇が迫り、ルナリスは悟った。このまま、窒息して死ぬのだと。
しかし、伸ばした指先が完全に埋もれる、その刹那。
ぐん、と腰を強く引っ張られた。
力任せに砂の中から引きずり出され、地を擦るようにずるずると運ばれていく。
腰の革ベルトを咥えているのは、牙だろうか。視界は砂に曇り、何が起きているのかも分からない。
ようやく呼吸ができた瞬間、口の中の砂を思いきり吐き出した。
「う……」
じゃり、と鳴る感触。どれだけ吐いても、細かい砂が舌の上に残る。
それに混じって、鮮やかな血が滲んだ。落下の衝撃で、怪我をしたのだろう。
ベルトから牙がふっと離れ、ルナリスは床に這いつくばった。
咳き込みながら身体を起こし、付着した砂を払って目を開ける。視界の先には、黒々とした影が立っていた。
「……ゼファー」
かすれた声が漏れる。
その名を呼ぶと、狼はわずかに耳を動かした。
助けてくれたのだと気づいた瞬間、ルナリスの目から涙がこぼれた。
「あなたが、助けてくれたのね……」
震える手を伸ばし、黒い毛並みに触れる。
すると、ぬるりとした感触が掌に広がった。温かく、けれどあまりにも嫌な温度。
血だ。
ルナリスは息を呑む。掌を見つめると、指の隙間から赤が滴り落ちた。
黒狼は短く鼻を鳴らし、それきり、力が抜けたように崩れ落ちた。
「ゼファー……!」
ルナリスは悲鳴を上げ、這うようにして傍へ寄った。途端に、あらぬ方向へ曲がった足から激痛が走る。
痛みに顔を歪めながらも、彼女は腕を伸ばし、ゼファーの首を抱きしめた。
血の匂いが立ちこめる。ふたつの影を中心に、赤がじわじわと広がっていく。
「ゼファー……ゼファー、ごめんね……」
震える指で頬を撫で、耳をなでる。
彼の鼻先から漏れる息は、すでに細く、今にも途切れそうだった。
ルナリスもまた、遠のく意識の中で、彼の鼓動を確かめようと必死に耳を澄ます。
脳裏には、リヒトの顔が浮かんでいた。
会いたい。
触れたい。
けれど、それと同時に、彼から相棒を奪ってしまう罪悪感が、胸をひどく痛ませた。
嗚呼。
ルナリスは祈るように、そっと目を閉じる。
(お願い……ゼファーを助けて)
そのかわり、私の何を犠牲にしても構わない。
薄れていく意識の中で、ルナリスはただひたすら、願い続け――。
――次に目を開けたとき、あれほどの痛みが嘘のように消えていた。
何故? そう問いかけても、答える者はいない。
傍らの狼に尋ねてみても、返ってきたのは「ワフン」という気の抜けた声だけだった。
どういうわけか、ルナリスにもゼファーにも、傷ひとつ残っていない。
癒えていたのだ。完全に。
折れ曲がっていたはずの足すらも、こうして歩けるほどに回復している。
あの怪我は、気を失っているあいだに自然と治るような浅いものではなかったはずだ。
(こんなことができるのは、治癒魔術くらいしか思いつかないけれど……)
しかし、この場には術を使える者など、誰ひとりいない。
意識を失っているあいだに、いったい何が起こったのだろう。
うす暗い石の通路を進みながら、ルナリスはしきりに首を傾げていた。
彼女たちが落ちたのは、通路の途中にある四角い部屋だった。
崩落したのは天井の一部だが、連鎖的に壁も崩れ、瓦礫がいくつも散乱している。
それが幸いしたのか、砂は空間すべてをすぐに埋め尽くすことはなかった。崩れ落ちた石材の隙間が、通路へと続く抜け道を偶然生み出していたのだ。
ルナリスを掘り起こしたゼファーは、その細い道を頼りに安全な場所へと運び出してくれた。すべてが飲み込まれる前に。
あの砂の中から生還できたこと自体、まさに奇跡と言っていい。
それに加え、今は身体の痛みひとつ残っていない。
未知の力による癒し。
考えれば考えるほど謎は深まるばかりだが、いまはこれを幸運と呼ぶほかない。
そうでなければ、自分もゼファーも、あの瞬間に命を落としていたはずだから。
とはいえ、喜んでばかりもいられなかった。
ここは地下遺跡のようだが、先に伸びる通路は闇に沈み、方角の見当すらつかない。
「とにかく、今はここから出る方法を探しましょう」
自らを奮い立たせるように言葉を口にする。
この先がどこへ繋がっているのかは分からない。だが、立ち止まるわけにはいかなかった。
再び崩落が起きれば、逃げ場を失うかもしれない。一刻も早く、地上に出なければ。
そうして、ルナリスとゼファーは、暗い地下世界を慎重に歩き出した。




