第62話 「雪」②
翌朝。まだ空が明るくなりきらない頃。
「‥‥‥アリアちゃん」
「ん‥‥‥」
アリアは眠りの中から、誰かに呼ばれていることに気づいた。
「アリアちゃん、起きて」
「‥‥‥誰?」
重たい瞼を開ける。そこにいたのは、スーだった。
「スー大佐‥‥‥?」
「おはよう」
「‥‥‥まだ朝早いよ」
「ええ。早いわね」
スーは少し申し訳なさそうに笑った。
「でも、起こさなくちゃいけないの」
「何かあった?」
「私たち三人、作戦局へ戻ることになったの」
「‥‥‥そう」
アリアはまだ寝ぼけたまま、ゆっくり身体を起こした。
「もう?」
「ええ。昨日の包囲網突破で、ここの戦況も少し変わったから」
「分かった」
アリアはベッドから降りる。そして身支度を整える。
「リリアにも伝える」
「お願い」
アリアは隣で眠るリリアを起こし、軍服を整えた後で二人は拠点の開けたところに向かうと、そこには3人の姿があった。
「スー大佐?」
「今朝、王都から命令が来たの」
スーが説明する。
「マーガレット少将とヴァース少将も一緒に、作戦局へ戻ることになったわ」
「そうですか‥‥‥」
リリアは少し寂しそうな顔をした。
短い期間だった。それでも厳しい包囲戦を共に戦った仲間である。
「三人には本当に助けてもらいました」
リリアが頭を下げる。
「こちらこそ」
スーが微笑む。
「特に、あなたたち二人がよく頑張ったわ」
「‥‥‥ありがとうございます」
やがてマーガレットとヴァースもやって来た。
「アリアちゃん」
「マーガレット少将」
「もう少し一緒にいたかったわね」
「うん」
アリアは小さく頷く。ヴァースが笑う。
「生きていれば、また会う機会はあるさ」
「そうですね」
アリアは三人を見る。
「本当に、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「元気でな」
「ええ」
三人はそれぞれ敬礼する。アリアとリリアも敬礼を返した。やがて、三人は作戦局へ戻るための輸送機へ向かって歩いていく。アリアはその背中を見送った。
*
しばらくして。
「‥‥‥行ってしまいましたね」
リリアが呟く。
「うん」
「なんだか、少し寂しいです」
「私も」
アリアは珍しく素直に答えた。そして、二人は駐屯地へ戻っていった。これで、再び第51統合大隊だけになった。
しかし包囲は解除し、王国軍の前線と接続した。物資も補給された。拠点には第51統合大隊以外にも部隊が集結した。そして何より久しぶりに、誰にも急かされず休める時間ができた。
「リリア」
「はい?」
「今日は訓練を休みにしようか」
「‥‥‥本当ですか?」
「本当」
リリアの顔が明るくなる。
「では、私もゆっくり休みます」
「ああ」
二人はそれぞれの宿舎へ戻っていった。
その日第51統合大隊の隊員たちは、久しぶりに深い眠りについた。戦場へ出る必要もない。敵の砲撃を警戒する必要もない。
ただ眠り、食べ、身体を休める。
そんな当たり前の時間が、彼らにとっては何よりも貴重だった。
*
そして一夜が明けた。
朝。アリアはテントの外へ出た。
「‥‥‥」
そして一歩踏み出して、アリアは立ち止まった。昨日まで土や泥がむき出しだった地面。そこには白い雪が積もっていた。
「‥‥‥十センチくらいある」
リリアも外へ出てくる。
「本当に‥‥‥」
二人は並んで雪を見る。前線一帯が、白く染まっていた。
塹壕。
防御陣地。
軍用車両。
テント。
すべてが雪に覆われている。
「昨日の夜から、ずっと降っていたんでしょうね」
「そうみたいだね」
リリアは雪の上を歩く。
ぎゅっ。
雪を踏みしめる音がする。
「十センチくらいなら、まだ歩けますね」
「でも、戦車や装甲車には少し厄介だな」
「確かに」
アリアは空を見上げた。どんよりとした冬の空。まだ雪が降り続いている。
「‥‥‥綺麗だね」
「はい」
しばらく二人は何も言わず、白く染まった戦場を眺めていた。昨日までここは、激しい戦闘が繰り広げられた場所だった。砲弾が飛び、銃撃が響き、兵士たちが走り回っていた。
それなのに今は何事もなかったかのように、雪がすべてを覆い隠している。
「戦場も、雪が降ると別の場所みたいですね」
リリアが呟く。
「そうだね」
アリアは答える。
「‥‥‥少しの間くらい、こういう景色を見ていたいな」
「ええ」
第51統合大隊は。
束の間ではあるが、戦いから離れた時間を手に入れていた。
そして雪は、その戦場に、静かに十センチほどの白い絨毯を敷いていた。
*
翌朝。
前線一帯は、さらに白銀の世界へと変わっていた。一昨日から降り続いた雪は、二十センチ近くまで積もっている。
塹壕も。
防御陣地も。
軍用車両も。
すべてが白く覆われていた。
「……かなり積もったな」
アリアは宿舎の外へ出て、雪を踏みしめた。
ぎゅっ、と雪が鳴る。
リリアも隣へやってくる。
「昨夜より、さらに増えましたね」
「ああ」
アリアは周囲を見渡す。すると、遠くから聞こえてくるはずの砲撃音が、いつもより少ないことに気づいた。
「……静かだな」
「そういえば」
リリアも耳を澄ませる。
「連邦軍、今日はあまり攻撃してきませんね」
「攻撃できないんじゃないか?」
「え?」
アリアは遠くの敵陣地を見る。雪原の向こうには、連邦軍の戦車や砲兵陣地が配置されている。
しかし戦車の周辺では兵士たちが忙しそうに動き回っている。砲兵陣地でも、何かを整備している様子が見える。
「……なるほど」
アリアの目が細くなった。
「雪で動きが悪くなっている」
「戦車が?」
「戦車も。砲兵も」
アリアは少し考える。
「地面が雪で覆われている。戦車は履帯が滑るし、移動速度も落ちる。砲兵も陣地の整備や移動が難しくなる。それに、観測も悪くなる」
リリアが敵陣を見る。
「つまり……」
「今なら攻撃できる」
リリアが目を見開く。
「でも、大隊は昨日休養に入ったばかりですよ?」
「そうだね」
「……まさか」
「休暇を取り消す」
「やっぱり……」
リリアが額に手を当てる。
「せっかくみんな休めたのに……」
「こんな好機、そう何度も来ない」
アリアは淡々と言った。
「敵の戦車と砲兵がまともに動けないなら、今のうちに叩く」
「しかし、隊員たちは……」
「昨日、十分に休んだ」
「一晩ですけど」
「一晩も休めた」
「……」
リリアは何か言おうとしたが、アリアの表情を見て諦めた。
「分かりました」
「大隊を起こす」
「はい」
ほどなくして。
「総員、起床!」
「戦闘準備!」
駐屯地に再び号令が響き渡った。
「えっ、休養じゃなかったの!?」
「敵が動けないんだって!」
「なるほど……!」
隊員たちは寝ぼけながらも、次々と装備を整えていく。少し前まで眠っていたとは思えないほど、準備は早い。さすがは第51統合大隊だなとリリアはその様子を見て思った。
やがて。
「総員、傾注!」
リリアの声とともにアリアが前へ出る。隊員たちが整列する。
「諸君」
アリアは雪原の向こうを見る。
「今日は休養の予定だった。だが、敵の動きを見ろ」
隊員たちが敵陣を見る。
「戦車がまともに動いていない。砲兵も活動が鈍い。雪で足元を取られている」
アリアは魔導銃を肩に担ぐ。
「こんな好機を逃すほど、私は優しくない」
隊員たちの間から苦笑が漏れる。
「悪いが本日の休養は―――」
一呼吸。
「取り消しだ」
「ですよね!」
「やっぱり!」
笑い声が上がる。アリアも少しだけ笑った。
「代わりに、敵に大きな損害を与える」
「おおっ!」
隊員たちの表情が変わる。
「特に狙うのは敵の戦車部隊と砲兵部隊。魔導部隊は上空から敵の砲兵を叩く! 陸軍部隊は、動きの鈍い戦車部隊を攻撃しろ! 敵が立て直す前に離脱する」
「了解!」
ルードが前へ出る。
「陸軍部隊、準備完了!」
「魔導部隊も準備完了です!」
リリアから報告が入る。
「よし」
アリアが箒へ跨る。
「第51統合大隊、出撃!」
「了解!」
魔導士たちが一斉に飛び立つ。雪を巻き上げながら、陸軍部隊も前進を開始した。連邦軍は、まさかこの雪の中、王国軍が再び攻撃してくるとは思っていなかったのだろう。
「敵が来たぞ!」
「防衛態勢!」
「戦車を動かせ!」
連邦軍兵士たちが慌てて動き始める。だが戦車は雪に覆われた地面で思うように動かない。
「進め!」
「履帯が滑っています!」
「砲撃準備!」
「観測できません!」
防衛側の混乱は明らかだった。アリアは上空からそれを確認する。
「今だ」
魔導銃を構える。
「第2、第3魔導小隊、砲兵陣地を叩け!」
「了解!」
魔導士たちが一斉に降下する。敵砲兵陣地へ魔力弾を集中させる。
「第一砲兵陣地、沈黙!」
「第二陣地も!」
「次、奥!」
雪原の上を魔導士たちが飛び交う。連邦軍は砲撃で反撃しようとする。しかし、雪によって砲兵の運用が乱れている。
「撃て!」
「照準が合いません!」
「急げ!」
その間に、魔導士たちが次々と砲兵陣地を攻撃する。
地上では。
「戦車部隊が来るぞ!」
「止めろ!」
ルード率いる陸軍部隊が、戦車部隊へ攻撃を集中させる。雪で動きが鈍った戦車は、普段のような機動力を発揮できない。
「敵戦車、動けません!」
「今だ!」
「攻撃!」
王国軍の攻撃が集中する。連邦軍戦車部隊は次々と戦闘能力を失っていく。
「戦車部隊、後退!」
「追うな!」
アリアが即座に命じる。
「目標は撃破ではなく、戦力を削ること」
「了解!」
魔導士たちが上空から敵部隊をさらに攻撃する。数時間前まで休養していたとは思えない。第51統合大隊は、再び一個の戦力として動いていた。
「敵砲兵、ほぼ沈黙!」
「戦車部隊も後退を開始!」
「よし」
アリアは満足そうに頷く。
「ここまでだ」
「全隊、撤退!」
王国軍が一斉に後退する。連邦軍は追撃しようとする。しかし、雪のために動きが遅い。第51統合大隊は、十分な戦果を上げたまま安全に自陣へ戻ることができた。帰還した隊員たちには、疲れた表情と同時に達成感があった。
「……休暇取り消しの価値はありましたね」
リリアが言う。
「ああ」
アリアは雪原を見る。
「敵の戦車と砲兵をかなり削れた」
「はい」
そして空を見上げる。白い雪が、また静かに降り始めていた。
「……雪って、戦争の味方にも敵にもなるんですね」
リリアが呟く。
「そうだね」
アリアは頷いた。
「だから、戦場では何が起きるか分からない」
「はい」
二人は白く染まった戦場を見た。




