第39話 「番外編・チョコレート」
戦時下における国家で、好きなものを好きな時に食べることなど、ほとんどできない。特に死と隣り合わせの前線ならなおさらだ。前線の食事は、基本的に保存性と運搬のしやすさが優先される。
ただ固いパンに味のしない保存肉。乾燥させた野菜。それに、簡単なスープ。
まずくはない。食べられないほどでもない。でも、食事を楽しめるかと言われれば、答えは違った。
「‥‥‥今日もこれですね」
食堂で配給を受け取りながら、リリアが小さく呟く。
「そうだね」
私は自分の皿を見た。パンと保存肉。いつも通りの食事だった。リリアは少しだけ肩を落としている。
「甘いもの、食べたいなあ‥‥‥」
「無理」
「分かってますよ」
リリアは苦笑した。リリアは、大の甘党だ。ケーキも好き。菓子も好き。甘いパンが出れば、真っ先に取る。そして、赤ワインも好きだった。休養地や王都なら、赤ワインを飲む機会もあるのかも知れない。
でも、ここは前線だ。酒は貴重品だし、甘味だってそう簡単には手に入らない。私にだって好きなものがある。ブラックコーヒーとミートソーススパゲッティ。どちらも前線では、まずお目にかかれない。コーヒーについては、一応、代用コーヒーが配給されることがある。
「アリア、代用コーヒーですよ」
以前、リリアが持ってきてくれたものを一口飲んだことがある。
‥‥‥とにかくまずかった。
「飲める?」
「飲めないことはない」
「じゃあ、どう?」
「コーヒーではない。でもただ黒いだけだよ、これは」
「また始まった」
「私はブラック以外をコーヒーと認めない」
「砂糖入りも?」
「認めない」
「ミルク入りは?」
「それはカフェオレ」
「厳しいなあ‥‥‥」
コーヒーは苦いからいい。あの苦味と香りが好きなのだ。代用コーヒーは、どうにも違う。似たような色をしていても、私にとっては別物だった。それでも、前線では贅沢なんて言っていられない。
*
あの日の夕方。
「全員、配給を受け取れ」
補給担当の兵士が、いつもより少しだけ大きな声を出した。隊員たちが並び、一人ずつ食料を受け取っていく。私も自分の分を受け取った。
パン。
保存肉。
野菜。
そして。
「‥‥‥?」
配給袋の底に、見慣れないものが入っていた。小さな包み紙。私はそれを取り出した。
「チョコレート‥‥‥?」
思わず声が出た。
「えっ!?」
隣にいたリリアがこちらを覗き込む。
「チョコレートですか!?」
「うん」
「本物?」
「たぶん」
包装を確かめる。間違いない。チョコレートだった。しかも、一人3枚とは大盤振る舞いだ。リリアの目が輝いた。
「‥‥‥食べてもいいんでしょうか」
「配給だから、いいんじゃない?」
「本当に!?」
「うん」
リリアは包み紙を開けようとした。けれど、その手が止まった。
「‥‥‥アリア」
「何?」
「アリアは食べないんですか?」
「私は別に」
「甘いもの、嫌いでしたっけ?」
「嫌いではないよ」
私は少し考えた。
「ただ、リリアの方が好きでしょ」
「‥‥‥」
「だから、私の分もあげる」
「でも‥‥‥」
「いつものこと」
私はチョコレートをリリアの手に載せた。リリアは困ったような顔をする。
「いつも、もらってばかりですね」
「気にしなくていい」
「でも、アリアだって好きなものがあるでしょう?」
「あるよ」
「何ですか?」
「ブラックコーヒー」
「うん」
「あと、ミートソーススパゲッティ」
「ああ‥‥‥」
リリアは納得したように頷いた。
「確かに、アリアはその二つが好きですよね」
「好き」
「でも、前線じゃ食べられない」
「そう」
「‥‥‥だったら」
リリアはチョコレートを見つめた。
「このチョコレートは、アリアも食べるべきですよ」
「私は―――」
「半分こしましょう」
「‥‥‥」
私は少し驚いた。リリアが板状のチョコレートを割る。
「はい」
「私は別に‥‥‥」
「だめです」
「どうして?」
「私だけが甘いものを食べるのは、なんだか申し訳ないです」
リリアは小さく笑った。
「それに、アリアがいつも私に自分の分をくれるでしょう?」
「そうだね」
「だから今日は、私がアリアにあげます」
そう言うと割ったチョコレートの欠片の一つを、リリアが摘まんだ。
「はい、アリア」
「‥‥‥?」
私は差し出されたチョコレートを見る。
「食べてください」
「私は別に―――」
そう言って断ろうとして、口を開いた瞬間だった。リリアは待ってましたとばかりに、そのひと欠片を私の口へ押し込んだ。
「ん‥‥‥」
突然のことに、私は目を瞬かせる。
「はい。アリアの分です」
「‥‥‥」
口の中に、甘さが広がった。久しぶりに食べる、本物のチョコレート。
甘い。
けれど、それだけではない。ほんの少し苦味もあって、口の中でゆっくり溶けていく。
「‥‥‥おいしい」
思わず呟いていた。リリアが嬉しそうに笑う。
「でしょう?」
「うん」
リリアが嬉しそうに笑う。
「よかった」
たった一欠片のチョコレート。王都なら、きっと珍しくもないものなのだろう。
けれど、ここでは違う。戦場では、好きなものを食べることさえ難しい。
コーヒーもミートソーススパゲッティも赤ワインも甘いものも。
そんな当たり前のものが、当たり前ではなくなる。
だからこそ。
「リリア」
「はい?」
「今度、戦争が終わって休暇が取れたら」
「うん」
「ブラックコーヒーを飲みに行こう」
「いいですね」
「その後、ミートソーススパゲッティ」
「赤ワインも一緒に飲みたいですねぇ。あっあと甘いものも食べましょう」
「リリアはそれが本命でしょ」
「もちろんです」
リリアが笑う。私も少しだけ笑った。そして、残ったチョコレートを二人でゆっくり食べた。3枚あったチョコレート。リリアは私があげた分を含めて5枚はゆっくり食べることにしたようだ。嬉しそうに執務室の机の引き出しに入れ、ご丁寧に鍵までかけていた。
前線の粗末な食堂で。ほんの少しだけ、戦争のことを忘られた夜だった。




