第32話 「戦いの後で」②
それから二日が経った。南部の駐屯地にある医務室。静かな部屋の中には、窓から差し込む朝の光だけがあった。ベッドの上で、アリアは眠っていた。その枕元にはリリアが座っている。リリアは椅子に座ったまま、じっとアリアの顔を見つめていた。
「‥‥‥」
アリアはまだ目を覚まさない。軍医からは、魔力の回復には時間がかかると説明されていた。だからリリアは、ほとんどこの部屋を離れなかった。
「‥‥‥ん」
アリアの指が、ほんの少し動いた。
「‥‥‥?」
リリアが顔を上げる。
「アリア少佐?」
アリアの眉がわずかに動く。やがて。
「‥‥‥ここは‥‥‥」
かすかな声が漏れた。
「アリア少佐!」
リリアが立ち上がる。
「分かりますか? 私が分かりますか?」
「‥‥‥リリア?」
「はい!」
リリアは安堵したように息を吐いた。
「よかった‥‥‥本当に‥‥‥」
アリアはゆっくりと周囲を見回す。白い天井に、少しツンとした匂いのする部屋の空気。そして、すぐそばにいるリリア。
「‥‥‥私は」
「戦闘後に倒れたんです」
リリアが説明する。
「軍医によれば、重度の急性魔力欠乏症だったそうです」
「‥‥‥そう」
アリアは目を伏せる。ぼんやりと、戦場での記憶が蘇ってくる。
敵司令部の撃滅作戦。
選抜小隊。
敵の歩兵大隊。
そしてあの男。
「‥‥‥」
アリアはしばらく黙っていた。
「アリア少佐?」
「‥‥‥何でもない」
リリアが少し心配そうに見つめる。
「二日間、ずっと眠っていたんですよ」
「二日‥‥‥」
「はい」
「‥‥‥そう」
アリアは天井を見る。そして、ふと思った。自分が眠っている間、この子はずっとここにいたのだろうか。
「リリア」
「はい?」
「‥‥‥ずっといたの?」
「え?」
「私のそばに」
「‥‥‥はい」
リリアは少し照れたように笑った。
「当然です」
アリアは何も言わなかった。けれど胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
「‥‥‥すまない」
「え?」
「いや」
アリアは顔を横に向ける。
「何でもない」
声には出さなかった。
――すまなかった。
心の中で、もう一度だけ呟く。自分が無茶をしたせいで、リリアを心配させた。隊員たちにも心配をかけた。そして何より自分が倒れれば、中隊の指揮を執る者がいなくなる。それがどれほど危険なことなのか。アリア自身が一番分かっていた。
「‥‥‥私は、まだ未熟だな」
小さな声だった。
「何か言いました?」
「何でもない」
アリアは目を閉じた。
*
その日の午後。
王都。王国軍総司令部。
フランは執務室で書類に目を通していた。
「‥‥‥アリアが意識を回復した?」
伝令兵からの報告を聞いたフランは、すぐに立ち上がった。
「はい。今朝、意識を取り戻したとのことです」
「そう‥‥‥」
フランは胸を撫で下ろす。しかしすぐに表情を引き締めた。
「なら、呼んで」
「誰をでしょうか?」
「アリア少佐と、リリア大尉」
「了解しました」
数時間後。総司令部の廊下を、二人の少女が歩いていた。アリアはまだ本調子ではない。歩く速度も普段より遅かった。隣を歩くリリアが心配そうに見る。
「本当に大丈夫ですか?」
「問題ない」
「でも、まだ軍医から安静にするように言われているんですよね?」
「歩ける」
「そういう問題では‥‥‥」
「リリア」
「はい?」
「心配しすぎだ」
「‥‥‥心配しますよ」
リリアは少しだけ頬を膨らませた。
「二日間も意識を失っていたんですから」
「‥‥‥」
アリアは何も言わなかった。やがて二人は、フランの執務室の前に到着する。アリアが扉をノックする。
「入れ」
「失礼します」
扉が開く。中にはフランがいた。机の前に立っている。その表情は、いつもの作戦参謀のものだった。冷静で厳しく、何を考えているのか分からない。
「アリア少佐、リリア大尉」
「はい」
二人が敬礼する。フランは二人を見る。しばらく何も言わない。そして―――。
「アリア」
「はい」
アリアが顔を上げた。
「こっちへ来なさい」
「‥‥‥?」
アリアが一歩前へ出る。その瞬間。
パァン!
乾いた音が部屋に響いた。
「‥‥‥!」
リリアが目を見開く。アリアも驚いたように目を見開いていた。フランが、アリアの頬を叩いたのだ。
「‥‥‥フラン?」
アリアが呆然と呟く。フランは何も言わない。ただ、アリアを見つめている。
やがて。
「‥‥‥馬鹿」
その声は震えていた。
「どうして‥‥‥」
フランの目に涙が浮かぶ。
「どうして、あんな無茶をしたの」
アリアは答えられない。
「あなたは中隊長でしょう」
「‥‥‥はい」
「部下を率いる立場でしょう」
「はい」
「それなのに、自分一人で敵の中央に突っ込んで‥‥‥」
フランの声が震える。
「大量の魔力を使って‥‥‥そのまま戦い続けて‥‥‥」
「‥‥‥」
「もし戻ってこられなかったら、どうするつもりだったの?」
アリアは俯いた。
「‥‥‥申し訳ありません」
「軍人として怒っているんじゃない」
フランが言う。
「私は――」
言葉が止まる。そして、フランは静かに続けた。
「あなたの母として、心配しているの」
アリアの目がわずかに揺れる。
「‥‥‥」
フランは拳を握る。
「私は作戦参謀よ。戦場で誰が負傷した、誰が戦死したなんて報告を、毎日のように聞いている」
「‥‥‥はい」
「でも」
フランはアリアを見る。
「あなたの名前だけは、何度聞いても慣れない」
アリアは何も言えなかった。
「あなたが戦場に行くたびに、帰ってきてくれるか心配になる」
「‥‥‥フラン」
「だから――」
フランはもう一度、アリアの顔を見る。
「二度と、自分を粗末にするような戦い方をしないで」
アリアは静かに答えた。
「‥‥‥努力する」
「努力じゃない」
「‥‥‥」
「約束して」
アリアはしばらく考えた。そして、小さく頷く。
「‥‥‥分かった」
フランはようやく息を吐いた。その様子を見ていたリリアは、胸の奥が温かくなるのを感じていた。厳しい作戦参謀。王国軍の中でも高い地位にいる軍人。そんなフランにも一人の少女を心から心配する、母親としての顔がある。
「‥‥‥フラン」
「何?」
「‥‥‥心配をかけて、すまなかった」
アリアがそう言った。フランは少し驚いた。そして。
「‥‥‥本当に、あなたは」
小さく笑う。
「そういうところだけは素直なのね」
アリアは少しだけ目を逸らした。その横でリリアが微笑む。戦争はまだ終わっていない。連邦軍もなお戦う意思を失ってはいない。けれどこの瞬間だけは三人の間に、戦場とは違う静かな時間が流れていた。




