第9話 終わらせたはずのこと
朝。
目が覚めた瞬間、手に違和感が残っていた。
何かを握っていたような感覚。
でも、手の中には何もない。
指を開いても、当然そこには空気しかなかった。
それでも、確かに“触れていた”気がする。
「氷月」
結菜の声で現実に引き戻される。
「おはよう」
そう返す。
その一言が、ほんの少しだけ遅れた気がした。
私。
そう思う。
でもその確認が、少しずつ必要になってきている。
教室。
陽菜はいつも通り明るく話しかけてくる。
「ねぇ氷月、今日ちょっと元気なくない?」
「そんなことないよ」
すぐに答える。
でも、その“すぐ”に違和感が混ざる。
陽菜は気にしていない様子で笑う。
結菜は、少しだけ黙ってこちらを見ていた。
昼休み。
廊下で雫とすれ違う。
「氷月」
呼び止められる。
「なに」
雫は少しだけ考えるようにしてから言う。
「さっきの会話」
「一回、言い直したよね」
「……そう?」
「うん」
それだけ言って、雫はそれ以上踏み込まない。
でも、その“それ以上言わない”ことが重く残る。
放課後。
結菜と並んで帰る道。
「氷月」
「なに」
「ちょっと聞いていい?」
「いいよ」
結菜は少しだけ迷うようにしてから言った。
「妹ってさ」
足が止まる。
「……なに」
「事故だったよね」
空気が一瞬だけ静かになる。
「そうだよ」
即答する。
そのはずだ。
そういうことになっている。
結菜は少しだけ安心したように息をつく。
「だよね」
その一言で終わるはずだった。
なのに。
「ちゃんと」
口が動く。
自分の意思より先に。
「ちゃんと終わらせたし」
言葉が落ちる。
一瞬、何を言ったのか分からなかった。
結菜の表情が止まる。
「……終わらせた?」
自分の言葉を、自分で理解する。
違う。
そんなこと言うつもりじゃなかった。
「違う、今のは」
言い直そうとする。
でも何をどう直せばいいのか分からない。
「事故で」
そう言いかけた瞬間。
頭の奥で何かが引っかかる。
事故。
本当に?
結菜は何も言わない。
ただ、少しだけ距離を取る。
その距離が、はっきりと分かる。
夜。
眠りに落ちる。
今日は、落ちる感覚がはっきりしていた。
気がつくと、あの場所。
教室のようで、教室じゃない場所。
机がひとつ。
その向こうに、緋月がいる。
「……来たね」
「緋月」
声が出る。
前より自然に。
「ねぇ、お兄ちゃん」
緋月がこちらを見る。
「今回は」
少しだけ間を置く。
「ちゃんと最後までできる?」
その言葉で、心臓が強く鳴る。
「何を」
分かっているのに聞く。
緋月は答えない。
ただ、静かに見ている。
その視線の奥に、あの映像が重なる。
手。
感触。
落ちる影。
「違う」
否定する。
でもその否定が弱い。
「ワタシ」
気づけば、口が動いていた。
「もう、終わってる」
言葉が零れる。
それが誰の言葉なのか、一瞬分からない。
緋月は、少しだけ笑う。
「うん」
そして、静かに言う。
「まだだよ」
その一言で、全部が崩れる。
目が覚める。
天井。
朝。
でも、感覚だけが残っている。
手。
何も握っていないのに。
確かに、何かを“終わらせた”感触。
そして同時に。
まだ終わっていない、という確信。
私は、自分が何をしたのか分からないまま、
それでも“やった気がする”という感覚だけを持っていた。




