―第4話 「日常という歪み」―
朝の光は、いつも通り教室に差し込んでいた。
何も変わっていないように見える。
「氷月ー!」
その声だけが、少しだけ現実を引き戻す。
振り向くと、桜庭陽菜が手を振っていた。
「おはよー!今日も綺麗だね!」
距離が近い。
それなのに、不思議と嫌じゃない。
「おはよう」
「もー、もっと元気に言ってよ!」
軽く笑いながら、隣に並ぶ。
その明るさは、周囲の空気を少しだけ柔らかくする。
「氷月ってさ」
陽菜が歩きながら言う。
「ほんと人気だよねー」
「何それ」
「だって見てると安心するもん」
安心。
それは褒め言葉なのか分からない。
教室に入ると、いつも通り視線が集まる。
けれど今日は、少しだけ慣れてしまっていた。
「ねぇ氷月」
陽菜が机に頬杖をつく。
「放課後、一緒に帰ろ!」
「別にいいけど」
「やった!」
その笑顔は、何も知らないまま成立している。
昼休み。
陽菜はずっと話している。
どうでもいい話ばかりなのに、空気だけは明るい。
「ねぇ氷月」
ふと陽菜が言う。
「昔からそんな感じだったっけ?」
「どんな感じ」
「なんかさ、時々遠く見てるよね」
遠く。
その言葉が少しだけ残る。
――遠いのは、どっちだ。
その時だった。
視界の端が、ほんの一瞬だけ揺れる。
――ねぇ。
声。
左側から。
「……今、何か言った?」
陽菜が首を傾げる。
「言ってない」
でも確かに、聞こえた。
午後。
授業中、黒板の文字が一瞬だけ滲む。
左目の奥が、少しだけ熱い。
隣の席。
誰もいないはずの場所を、結菜が見ている気がした。
いや、違う。
「氷月」
その声で現実に戻る。
「今日さ、放課後ちょっと付き合って」
結菜だった。
「いいけど」
そのやり取りの隣で、陽菜が笑っている。
「なにそれー!また秘密?」
軽い声。
何も知らない声。
その明るさが、少しだけ怖かった。
放課後。
校門の外。
夕方の光は柔らかいのに、どこか遠い。
「氷月」
結菜が先に歩き出す。
「こっち」
その後ろ姿は、昔と変わらない。
――ねぇ。
また声がした。
今度は、結菜のすぐ後ろから。
氷月は、立ち止まる。
「どうしたの?」
結菜が振り返る。
「……なんでもない」
そう言うしかなかった。
その瞬間、左目の奥だけが静かに熱を持つ。
見えていないはずのものが、そこに“いる気がした”。
神代氷月は、ゆっくりと歩き出す。
日常は、まだ壊れていないように見える。
けれどその中に、確かに何かが混ざり始めていた。




