―第3話 「見ている場所」―
朝の光は、もう慣れてきたはずなのに、まだ少しだけ痛い。
教室の空気も、昨日と同じ形をしているようで違う。
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「氷月」
一ノ瀬結菜が隣に立つ。
その声だけが、現実に触れている感じがする。
「おはよう」
「うん」
短い会話。
それだけで、少しだけ“ここに戻れる”。
席に着くと、視線が一瞬だけ止まる。
昨日より少し、重い。
その中の一つが、やけに長く残っていた。
「……」
見ている。
誰かが。
振り返ると、窓際の席で本を読んでいる女子がいた。
黒髪。整った姿勢。
感情の薄い目。
柊雫。
名前はまだ知らないはずなのに、なぜかそう思った。
その視線が、一瞬だけこちらに重なる。
すぐに逸れる。
「気のせい?」
結菜が小さく言う。
「何が」
「今、見られてたでしょ」
「……そうかも」
そう答えた瞬間、左目の奥が少しだけ熱を持った気がした。
昼休み。
校舎の喧騒が遠くなる場所で、一人になる。
そのはずだった。
「ねぇ」
声。
振り返ると、柊雫が立っていた。
「何」
短く答えると、雫は少しだけ首を傾げる。
「あなた」
「神代氷月」
一拍。
「……左目、見えないの?」
その言葉で、空気が止まった。
結菜の時とは違う。
これは“冗談じゃない目”だった。
「見えない?」
「隠してるだけでしょ」
指が無意識に髪に触れる。
左側。
そこは、いつもそこにあるはずなのに、時々“ない”気がする場所。
「別に」
そう言うしかなかった。
雫は少しだけ間を置く。
そして――
「そこ、ずっと誰かに見られてる感じがする」
その言葉で、呼吸が少しだけ乱れる。
「誰に」
結菜が割って入る。
雫は結菜を一度見て、それから静かに言う。
「分からない」
「でも、あなたじゃない何か」
沈黙。
その瞬間だった。
――ねぇ。
声が、左側からした。
はっきりとではない。
でも、確かにそこにいる。
「……今の」
結菜が小さく呟く。
「聞こえた?」
雫が初めて少しだけ目を細める。
「聞こえた」
教室の音が遠のく。
世界の輪郭が、少しだけ曖昧になる。
氷月は、左目を押さえた。
でもそこには何もない。
何もないはずなのに。
――ねぇ、氷月。
今度は、はっきりとした。
「……僕は」
言いかけて、止まる。
結菜が息を呑む。
雫が見ている。
「今、何て言った?」
結菜が小さく聞く。
「……何も」
嘘だ。
でも、それ以外に言いようがなかった。
雫は静かに言う。
「やっぱり」
「あなた、少し変だね」
その言葉は、優しくもなく、冷たくもなかった。
ただ“観察”だった。
神代氷月は、視線を落とす。
左目の奥だけが、まだ少しだけ熱い。
そして気づく。
誰かが見ているのは、自分ではなく。
――“そこ”だ。




