第26話 朝が来るまで
夜は静かだった。
時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
氷月はベッドに座ったまま、隣の緋月を見ていた。
透けている。
昨日より、もっと。
輪郭が曖昧になっている。
髪も。
指先も。
月明かりに溶けていくみたいだった。
「……まだいる?」
小さく聞く。
すると緋月は、少し笑った。
「いるよ」
その声だけは、ちゃんと近かった。
氷月は目を伏せる。
“さよなら”。
その言葉を受け入れた瞬間、本当に終わってしまう気がして怖かった。
「お兄ちゃん」
緋月が静かに呼ぶ。
「最後に、お願いしていい?」
氷月は顔を上げる。
緋月は少しだけ困ったように笑った。
「明日も、生きて」
その一言で、呼吸が止まる。
「……っ」
涙が滲む。
そんな簡単な願いが、一番苦しい。
「ワタシね」
緋月は窓の外を見る。
夜空。
静かな月。
「お兄ちゃんが、自分を嫌いになっていくの見るの、ずっと苦しかった」
氷月は何も言えない。
「だから、そばにいた」
「忘れられたくなかったのもあるけど」
少し笑う。
「一人にしたくなかったんだ」
その言葉で、胸の奥が痛くなる。
今まで。
緋月を“苦しめる存在”だと思っていた。
でも本当は。
逆だった。
苦しんでいたのは、緋月のほうだった。
「……ごめん」
また零れる。
すると緋月は呆れたみたいに笑った。
「だから、それ禁止」
昔みたいな口調。
その懐かしさに、涙が止まらなくなる。
緋月はゆっくり立ち上がる。
月明かりの中で、身体が淡く揺れる。
もう。
本当に長くない。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「……なに」
緋月は少しだけ考える。
そして。
「最後に、“お兄ちゃん”って呼んでもいい?」
その瞬間。
氷月の喉が詰まる。
そんなの。
今までずっと呼んでいたのに。
どうして今さら。
でも。
その意味が分かってしまった。
“最後”。
それを認める呼び方だった。
氷月は涙を拭いながら、小さく頷く。
「……うん」
すると緋月は、安心したみたいに笑った。
優しく。
泣きそうに。
「お兄ちゃん」
その声が、胸に刺さる。
小さい頃。
何度も呼ばれた声。
もう二度と聞けないかもしれない声。
「ワタシね」
緋月はゆっくり近づく。
そして。
そっと氷月を抱きしめた。
冷たい。
でも、少しだけ温かい。
不思議な感触。
「大好きだったよ」
静かな声。
嘘のない声。
その瞬間。
氷月の中で、何かが壊れた。
「っ……!」
涙が溢れる。
止まらない。
「やだ……」
子供みたいに声が震える。
「行くなよ……!」
緋月は何も言わない。
ただ、優しく背中に触れている。
その感触が少しずつ薄れていく。
「お兄ちゃん」
最後の声。
「もう、自分を許してあげて」
その言葉と同時に。
抱きしめていた感触が、ふっと消えた。
静寂。
風の音。
カーテンが揺れる。
そこにはもう、誰もいなかった。
氷月は一人、暗い部屋の中で座り込む。
でも。
不思議と、“完全な孤独”ではなかった。
胸の奥に、まだ温度が残っていた。
まるで。
“ちゃんと、そこにいた”証みたいに。




