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第22話 忘れたかった優しさ

朝。


目が覚めても、涙の感覚だけが残っていた。


頬が冷たい。


夢だった。


でも。


夢じゃない。


昨日、思い出した。


あの日。


冷たい水。


掴もうとした手。


そして。


“諦めた”。


氷月は布団の中で目を閉じる。


胸が苦しい。


罪悪感が、呼吸みたいにまとわりついて離れない。


なのに。


最後に聞こえた緋月の言葉だけが、頭から消えなかった。


――お兄ちゃんが、手を伸ばしてくれたの、ちゃんと覚えてるよ。


どうして。


責めないんだ。


学校。


教室に入る。


陽菜がいつも通り話しかけてくる。


「氷月、おはよー!」


「……おはよう」


返す声が少し掠れる。


陽菜が首を傾げた。


「大丈夫? 顔色悪くない?」


「寝不足」


短く答える。


最近、そればかりだった。


結菜が静かにこちらを見る。


何か言いたそうなのに、言わない。


その優しさが、今は痛い。


授業中。


窓の外を見る。


ガラスに自分が映る。


その隣。


今日は、普通に緋月が立っていた。


もう驚けない。


長い髪。


静かな表情。


少し寂しそうな目。


緋月はガラス越しに、小さく笑う。


――眠れた?


氷月は目を逸らす。


返事をしたら、“本当にそこにいる”気がしたから。


昼休み。


屋上。


風が冷たい。


雫が先にいた。


「最近ここ好きだね」


「……静かだから」


雫はフェンスにもたれたまま空を見る。


しばらく沈黙。


そのあと、小さく言う。


「……なんか、思い出した?」


その一言で、身体が止まる。


「え……」


雫はこちらを見ない。


でも。


氷月の反応だけを静かに見ている。


「最近の氷月」


「前より、苦しそうだから」


図星だった。


氷月はゆっくり視線を落とす。


「……私、最低だ」


ぽつりと零れる。


「助けようとはした」


「でも」


喉が詰まる。


その先を言うのが怖い。


雫は黙って待っている。


責めない。


急かさない。


それが逆に苦しかった。


「……途中で、怖くなった」


やっと、それだけ言う。


風が吹く。


長い沈黙。


そして雫は、小さく呟いた。


「人って、怖いとそうなる」


「でも」


氷月は俯く。


「結果は変わらない」


その言葉に、雫は少しだけ目を細めた。


「氷月は、変えたかったんでしょ」


胸が締めつけられる。


助けたかった。


本当に。


でも。


結果は変わらない。


放課後。


帰り道。


今日は結菜が隣にいた。


静かな道。


夕焼け。


最近、この時間が一番苦しい。


「氷月」


結菜が小さく呼ぶ。


「なに」


「少しだけ、戻った気がする」


その言葉に足が止まる。


「……戻る?」


結菜は頷く。


「最近ずっと、どこか遠かったから」


胸が締めつけられる。


戻った。


本当に?


それとも。


“緋月を思い出したから”なのか。


その時。


耳元で、静かな声がした。


――お兄ちゃん。


優しい声。


悲しそうな声。


氷月は目を閉じる。


「……何」


小さく返してしまう。


結菜が驚いた顔をする。


「え?」


しまった。


今。


普通に返事をした。


“そこにいるもの”に。


氷月は誤魔化すように首を振る。


「なんでもない」


でも。


もう隠しきれない。


緋月は、夢でも幻でもなくなり始めていた。


夜。


部屋。


静かな暗闇。


氷月はベッドに座ったまま、小さく呟く。


「……どうして」


沈黙。


そのあと。


すぐ隣から声が返る。


――なにが?


氷月はゆっくり顔を上げる。


そこに。


初めて。


“はっきりとした緋月”が座っていた。


透けてもいない。


曖昧でもない。


まるで、生きているみたいに。

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