第20話 掴めなかった手
目が覚めた瞬間、息が苦しかった。
まるで、水の中から無理やり引き上げられたみたいに。
「っ、は……」
荒く呼吸する。
喉が痛い。
胸が重い。
夢。
違う。
あれは、夢だけじゃない。
冷たい水。
泣き声。
離れていく小さな手。
“掴めなかった”。
その感覚だけが、生々しく残っていた。
氷月は震える手で顔を覆う。
「……違う」
小さく呟く。
事故だった。
仕方なかった。
そう思わないと、自分が壊れる。
でも。
頭の奥で、別の声がする。
――本当に?
学校。
教室。
陽菜の明るい声が響いている。
いつも通りの朝。
でも、氷月には全部が遠かった。
席に座る。
その瞬間。
「氷月」
結菜が静かに声をかけてくる。
「昨日、大丈夫だった?」
返事が遅れる。
“大丈夫”。
その言葉がもう分からない。
「……うん」
やっと答える。
でも。
結菜は少し悲しそうな顔をした。
「また嘘ついた」
胸が痛む。
何も言い返せない。
昼休み。
屋上。
風が強い。
雫がフェンスにもたれて空を見ていた。
「来ると思った」
氷月は少しだけ眉を寄せる。
「最近、なんでここにいるの」
「氷月が来るから」
即答だった。
雫は相変わらず感情が読めない。
でも。
最近は少しだけ、“見てくれている”感じがした。
「……なに」
雫はしばらく黙っていた。
そして。
「昨日、また変わった?」
その言葉に、肩が揺れる。
否定しようとして。
できなかった。
「……分からない」
本音だった。
雫は小さく頷く。
「そっか」
風が吹く。
沈黙。
そのあと、雫がぽつりと言う。
「でも」
「緋月って、悪いものじゃない気がする」
呼吸が止まる。
「なんで」
「なんとなく」
雫は空を見たまま続ける。
「氷月を壊したいなら、もっと早く壊してると思う」
その言葉が、胸に刺さる。
確かに。
緋月はずっと、“一緒にいたい”しか言わない。
奪いたいんじゃない。
消えたくないだけ。
放課後。
帰り道。
夕焼けが赤い。
最近、この色を見るたびに苦しくなる。
ふと、水たまりに視線が落ちる。
そこに映った自分。
その隣に。
長い髪の少女が立っていた。
「っ……!」
振り返る。
誰もいない。
でも。
水面の中には、まだいる。
緋月。
静かに笑っている。
――お兄ちゃん。
声が響く。
――思い出した?
「……何を」
水面が揺れる。
その奥で、緋月の表情が少し寂しそうになる。
――ワタシ、怖かったんだよ。
その瞬間。
視界が揺れた。
冷たい水。
暗い夜。
小さな手。
必死に伸ばしてくる。
“お兄ちゃん”。
泣きながら呼ぶ声。
氷月は頭を押さえる。
「やめろ……!」
でも、止まらない。
“掴めなかった”。
違う。
違う。
本当に?
その時。
水面の中の緋月が、小さく呟いた。
――ねぇ。
優しい声。
責めるんじゃなく。
ただ、確認するみたいに。
――お兄ちゃんは、本当にワタシを助けようとしてくれた?




