第19話 消えなかったもの
夜。
部屋の時計の音だけが響いている。
氷月は机の前に立ったまま、家族写真を見つめていた。
父。
母。
そして、小さな緋月。
笑っている。
あの日のまま。
でも。
写真の表面についた水滴の跡だけが、生々しく残っていた。
指で触れる。
冷たい。
まるで、本当に“誰かが触れた”みたいだった。
「……いるのか」
小さく呟く。
返事はない。
静かな部屋。
でも。
沈黙の奥に、気配だけが残っている。
氷月はゆっくり椅子に座る。
頭が重い。
ここ最近、自分の中の境界がどんどん曖昧になっていた。
夢。
現実。
私。
ワタシ。
その全部が混ざり始めている。
スマホが震えた。
結菜からだった。
『大丈夫?』
短い一文。
それだけなのに、胸が少し痛くなる。
何を返せばいい。
“大丈夫じゃない”。
でも。
そう言った瞬間、本当に壊れてしまいそうだった。
少し迷ってから返信する。
『平気』
送った直後。
違和感が走る。
この言葉、本当に私が打った?
画面を見つめる。
そこに続けて文字が入力されていく。
『でも、少し寂しい』
氷月の呼吸が止まる。
指が勝手に動いている。
止めようとしても止まらない。
『また話したいな』
送信。
静寂。
「っ……!」
スマホを落とす。
床にぶつかる音が響く。
「やめろ……」
声が震える。
すると。
背後で、小さな笑い声がした。
振り返る。
誰もいない。
でも。
確かに、いた。
――ごめんね。
緋月の声。
優しい声。
申し訳なさそうな声。
――でも、お兄ちゃん一人だと、壊れそうだったから。
「勝手に……」
喉が詰まる。
「勝手に、入ってくるな」
沈黙。
そのあと。
少しだけ傷ついたように、緋月が呟く。
――だって。
――お兄ちゃん、ワタシを置いていこうとするから。
胸が痛む。
その言葉が、妙に刺さる。
“置いていく”。
事故だった。
本当は。
なのに。
なぜか、自分だけが生き残った感覚が消えない。
まるで。
自分が“置いていった側”みたいに。
「……違う」
否定する。
でも。
声に力がない。
ベッドへ倒れ込む。
眠りたくない。
でも、意識が沈んでいく。
夢。
また、あの場所。
赤い夕焼け。
誰もいない教室。
窓際に、緋月が座っている。
「……来たね」
穏やかな声。
氷月は立ち尽くしたまま動けない。
前より近い。
存在感が濃い。
輪郭がはっきりしている。
まるで、本当にそこにいるみたいだった。
「お前……」
声が掠れる。
「何なんだよ」
緋月は少しだけ困ったように笑う。
「分かんない」
「でも」
静かに立ち上がる。
長い髪が揺れる。
「ワタシ、お兄ちゃんといたいだけ」
また、その言葉。
でも今度は、少し違った。
“願い”じゃない。
“本能”みたいだった。
「……私は」
言葉が止まる。
私は、どうしたい?
消えてほしい?
戻ってきてほしい?
分からない。
緋月はそんな氷月を見つめたあと、小さく笑った。
寂しそうに。
壊れそうに。
「ねぇ、お兄ちゃん」
一歩近づく。
「どうして、ワタシを一人にしたの?」
その瞬間。
夢の景色が大きく揺れた。
頭の奥で、何かが軋む。
冷たい水。
伸ばした手。
泣き声。
離れていく小さな影。
そして。
“掴めなかった感触”。
氷月は息を呑む。
事故。
あの日。
もしかして、自分は。
“助けられたかもしれない”のか?
その考えが浮かんだ瞬間。
緋月は、初めて泣きそうな顔をした。




