第16話 ワタシだった時間
朝。
目が覚めた瞬間、違和感があった。
身体が重い。
まるで、自分じゃない誰かの身体を動かしているみたいだった。
氷月はゆっくり起き上がる。
机の上にスマホが置かれている。
画面が点いていた。
結菜からのメッセージ。
『昨日の氷月、ちょっと楽しそうだったね』
その一文で、心臓が止まりそうになる。
昨日。
保健室。
緋月の声。
“ワタシとして過ごしただけ”
そこから先を、思い出したくなかった。
学校。
教室へ向かう足取りが重い。
扉を開けた瞬間、陽菜が笑いながら声を上げた。
「氷月! 昨日なんか雰囲気違ったよね!」
「……え」
「ちょっと柔らかかったっていうか!」
陽菜は悪気なく笑う。
でも。
結菜は笑っていない。
雫だけが静かにこちらを見ていた。
席に座る。
周囲の声が遠い。
昨日、自分はどこまで“自分”だった?
その時。
「氷月」
結菜が小さく呼ぶ。
「放課後、少し話せる?」
断れなかった。
放課後。
誰もいない空き教室。
夕焼けが窓から差し込んでいる。
最近、この色を見るだけで息苦しくなる。
結菜はしばらく黙っていた。
そして、小さく言う。
「昨日の氷月」
心臓が跳ねる。
「……何」
「優しかった」
その言葉が刺さる。
「でも」
結菜は続ける。
「少しだけ、知らない人みたいだった」
視線が揺れる。
否定したい。
でも。
できない。
「……ごめん」
また謝ってしまう。
結菜は悲しそうに笑った。
「なんでそんなに謝るの」
分からない。
分からないけど。
何かを奪っている気がする。
その時だった。
視界が揺れる。
結菜の声が遠くなる。
夕焼けが滲む。
頭の奥で、誰かが笑った。
――ほら。
甘い声。
優しい声。
――また、ワタシを呼んだ。
「……やめろ」
小さく呟く。
結菜が不安そうに顔を覗き込む。
「氷月?」
その瞬間。
世界が、一瞬だけ途切れた。
気づけば。
結菜のすぐ目の前に立っていた。
距離が近い。
近すぎる。
結菜が驚いたように目を開く。
「ひ、氷月?」
違う。
違うと分かる。
身体の動かし方が、自分じゃない。
口が勝手に開く。
「……結菜さん」
その呼び方で、自分の背筋が凍る。
私はそんな呼び方をしない。
結菜も気づいた。
表情が固まる。
でも、身体は止まらない。
「いつも、お兄ちゃんと一緒にいてくれてありがとう」
声が違う。
柔らかい。
甘い。
まるで。
「……緋月」
自分で、自分の口から零れた名前を聞く。
結菜の顔色が変わる。
「え……?」
止めたい。
身体を動かしたい。
でも動かない。
意識だけが、奥へ沈んでいく。
窓に映る自分が見える。
笑っている。
“私”じゃない笑い方で。
「ワタシね」
口が動く。
「ずっと、羨ましかったの」
結菜が後ろへ下がる。
混乱している。
当然だ。
でも。
その姿を見た瞬間。
胸の奥が痛んだ。
やめろ。
それ以上、喋るな。
そう思っても、止まらない。
「お兄ちゃん」
自分の声じゃない。
「ずっと、一人だったから」
夕焼けが教室を赤く染める。
その赤の中で。
結菜は、はっきり“別人”を見ていた。
そして氷月は。
自分の身体の奥で、
“ワタシだった時間”を、ただ見ていることしかできなかった。




