第126話 上を知るということ。
渋谷ダンジョンから帰って来た俺達は、いつもならそのまま軽く話したり、時間があれば八王子ダンジョンに向かう流れになるのが当たり前だったが、流石に今回の一件はそれを許すほど軽いものではなく、全員が何かを言い出すこともないまま、自然と“帰る”という選択を取ることになった。
「じゃあ、明日は休みにして‥‥また、月曜日の学校で会おう。」
俺がそう言うと、二人はほんの一瞬だけ顔を見合わせてから、短く言葉を返した。
「えぇ。」
「分かった。」
と、短い会話だけで終わった。
いつもなら、もう少し何かしらのやり取りがあるはずなのに、それすらも出てこないあたりに、今回の出来事がどれだけ俺達の中に重く残っているのかがよく分かる。
やっぱり‥‥いつも通りとはいかないよな。
そんなことをぼんやりと考えながら家へと帰ると、リビングでは姉がソファに寝転びながらスマホを弄っており、キッチンからは包丁の音と共に、母さんが晩御飯の支度をしている気配が聞こえてきた。
「ただいま。」
玄関で声をかけると、すぐにその音に気付いたのか、母さんが手を止めてこちらへとやって来る。
「おかえり、悠真。今日は随分帰りが早いのね。」
「うん‥‥まぁーね。今日は早めに切り上げようって話になってさ。」
言葉を濁しながらそう返すと、母さんは少しだけ首を傾げながらも、それ以上は踏み込まずに話を続けた。
「そうなのね。じゃあ、明日も渋谷に行くの?」
「いや、明日は行かない。」
短くそう答えると、母さんは一度だけ小さく頷き――
「そう。分かったわ。じゃあ先にお風呂入ってきなさい。その間にご飯の準備をしておくから。」
「ありがとう。」
それ以上は特に何も聞かれず、俺はそのまま言われた通りに風呂場へと向かった。
服を脱ぎ、シャワーで軽く汗を流してから湯船へと身体を沈める。
「ス~~あぁぁ‥‥」
思わず、息が漏れた。
湯に浸かった瞬間、身体の奥に溜まっていた疲労や重さが、ゆっくりと溶け出していくような感覚が広がり、張り詰めていたものが一気に緩んでいく。
こうして改めて湯船に浸かってみると、自分が思っていた以上に消耗していたことがよく分かる。主に敗北したという事実以上に、それまでの戦闘で積み重なった負荷が、確実に身体へと蓄積していたのだと実感させられた。
だが――身体が楽になるのとは反対に、思考の方はそう簡単には止まってくれない。
ぼんやりと天井を見上げていると、意識しないようにしても、勝手にあの光景が脳裏に蘇ってくる。
主との戦闘。
あの圧倒的な力の前で、何も出来なかった自分達の姿。
自分の不甲斐なさはもちろんだが、それ以上に突きつけられたのは、このダンジョンにはまだあれほどの強さを持つ存在がいるという事実と、そして――そこに自分が辿り着けるのかどうかすら分からないほどの、高みの存在だった。
あの領域に今の自分が届いていないことは、嫌というほど理解させられたが、だからこそ、その現実を突きつけられた今だからこそ、頭の中にふと一つの考えが浮かぶ。
確か、昔どこかで聞いたことがある話だ。
人は、自分で全てを経験しなくても、他者の行動やその結果を観察することで学習し、それを自分のものとして取り込んでいくことが出来る――そんな考え方があったはずだ。
たしか「社会的学習理論」‥‥だったか。
名前を正確に思い出せるほど詳しいわけではないが、その内容だけは妙に印象に残っている。
強者の動き、判断、その先にある結果――成功も失敗も含めて目に焼き付けることで、本来なら辿り着けないはずの領域に対して、最初から“理解”という形で足を踏み入れることが出来る。
つまり、一度でも“上”を知るという行為そのものが、自分の中の基準を書き換え、限界の位置を引き上げるきっかけになる。
それは単なる知識ではなく、成長の起点になり得るものだ。
‥‥まぁ、とはいえ。
どれだけ理屈として理解したところで、その高みに手を伸ばせるだけの力がなければ意味がないのも事実であり、結局のところ最後に必要になるのは――他の誰でもない、自分自身の力なのだと強く実感する。
そう思いながら、俺は湯の中でゆっくりと拳を握り締め、指先に力がこもっていくのを感じつつ、そのまま天井へと拳を向けた。
「必ず‥‥もっと高みへ上ってやる。」
小さく、だが確かな決意を込めてそう呟いたその言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ自分自身へと刻み込むためのものだった。




