第117話 最強の主。
走り出した雪を追いかけ、主がいる部屋へと近づくにつれて、明らかに異質な気配が周囲を満たしていくのを感じた。空気は重く沈み込み、まるでこの先に進むことそのものを拒絶しているかのように、じわじわと身体へ圧をかけてくる。
呼吸をするだけで肺の奥にまで負荷がかかり、それに伴うようにマナの濃度も異常なほどに増していく。その密度はスタンピートが発生している最中だと錯覚するほどであり、本来この階層で感じるはずのない領域にまで達していた。
これほどまでに濃いマナを放つ存在がいるなど、想像すらしていなかった。だからこそ今なら、咲の言葉に素直に従うべきだったと理解できる。嫌でも思い知らされる――この先にいる“主”は、これまでの常識が通用しない相手だと。
それでも、今さら引き返すことは出来ない。既に雪は迷いなく前へと走り出してしまっている以上、立ち止まるという選択肢そのものが消えていた。胸の奥にわずかに残る後悔も、前へ進む足を止める理由にはならない。
そして、主が待つ部屋へと辿り着く。
だが、部屋はおかしかった。普通、主が待つ部屋には大きい扉がついており、一度入ってしまえばどちらかが死ぬまでその扉が開くことはない。
通常であれば、主の部屋には巨大な扉が存在し、一度踏み入れればどちらかが死ぬまで外に出ることは出来ない。閉ざされた空間の中で決着がつくまで、その扉が開くことは決してない――それが、このダンジョンにおける絶対のルールだった。
だが目の前にあるそれは、既に人が中へ入っているにもかかわらず、その扉が開かれたままになっていた。
あり得ない光景だった。常識が、そのまま音を立てて崩れ落ちていくのを感じると同時に、嫌でも理解させられる――この部屋は、常識の通じる場所ではないと。
俺にはその扉の先が地獄のように見えた。何故なら、主の部屋の中央にいるのは、今まで見たことも聞いたこともない騎士のような鎧を身につけ、手には剣を握った、明らかに人の形をした存在だったからだ。
形は人であって、その中身は完全にマナは魔物と同じで、俺達人間を敵として攻撃してくる。
そして、恐らく先程の叫び声を上げた探索者だろう。一人は主に斬られてその場に倒れており、もう一人はその斬られた人を抱えてただ泣いていた。
そして、主は剣を振り上げて、まさに斬ろうとしている時だった。
「させないわ!!」
雪が主に向かって氷魔法を放つ。
二本の氷の槍が主に向かって飛んでいく。普通であれば後ろに下がったり、横に飛んだりして避けるのだが、その主は動かない。ただ振り上げた剣を、そのまま何の迷いもなく振り下ろした。
次の瞬間、氷の槍は衝突した音すら残さず、粉々に砕け散っていた。その一撃は“受けた”のでも“斬った”のでもない。ただ存在そのものを否定するかのように破壊した――そう錯覚するほどの、異質な一振りだった。
しかも、それで終わりではない。視認すら困難な速度で複数回の斬撃が叩き込まれていたことを、遅れて理解する。俺の目でさえ追えないその剣速は、明らかに人間の域を逸脱していた。
そして主は、何事もなかったかのように雪へと顔を向ける。その視線が向けられた瞬間、空気が凍りついた。
――来る。
そう思った瞬間には、既に目の前にいた。距離という概念が消失したかのような踏み込みで、たった一度の瞬きの間に間合いを詰められ、回避という選択すら許されない。
それを理解した瞬間、思考よりも先に身体が動いていた。神速を発動し、剣を抜き放つ。
「雪ー!!退けッ!!」
何とかギリギリのところで雪を突き飛ばし、主の剣を受け止めた。
上段から振り下ろされた剣は今まで感じたことがないほどの重さを持っており、ただ剣を受けただけだというのに、その衝撃で手は痺れ、足にまで伝わっていた。
だが、このまま押し切られるわけにはいかないので、根性で手を動かして滑るようにして剣の向きを変えた。そしてそのまま連撃のスキルを発動して斬りかかった。
だが、先程の雪の魔法と同様に俺の剣はいとも簡単に弾かれる。そして、がら空きになった首に主の剣が迫るが、背後からの雪の氷魔法による援護で主の攻撃は止まり、俺は急いで距離を取った。
この魔物は‥‥一体何なんだ?明らかに普通の魔物ではない。今まで武器を使う魔物はたくさん見てきたが、剣術を使う魔物なんて見たことも、聞いたこともない。
しかも、その剣術は俺の剣術よりも遥かにレベルが高い。さっきの一連のやり取りで、剣では勝負にならないことをハッキリと感じていた。
ならば、奴の弱点と、そして正体を知る為に俺は鑑定のスキルを発動した。
だが、その結果は『鑑定不能』と表記された。
そして続くようにして、俺の目の前に《緊急クエスト》という文字が浮かんだ。




