第108話 夕暮れの遭遇。
ただいまの時刻は17時になっており、既に太陽は沈みかけ、空はオレンジ色の夕焼けに染まっていた。ビルの隙間から差し込む光が長い影を地面に落とし、昼間の喧騒が嘘のように、どこか落ち着いた空気が街全体を包み込んでいる。
「今日は助かったわ。」
隣からそんな軽い言葉が投げられる。その声音はあまりにもあっさりとしていて、他人が聞けば本当に感謝しているのか疑いたくなるほどだが、この距離感こそが俺たち姉弟にとっては当たり前のものだった。
「別に‥‥いいよ。」
俺も同じように素っ気なく返事をし、そのまま帰路へと足を進めていたが、その穏やかな空気を切り裂くように、前方から鋭い叫び声が響いた。
「誰か‥‥その人を止めて‥‥ひったくりよ!!」
反射的に視線を向けると、女性物の鞄を抱えた男がこちらへ一直線に走ってきており、その足運びは明らかに素人のそれではなく、無駄のない体の使い方から、ある程度鍛えられていることが一目で分かった。体格も大きく、恐らく探索者としての経験があるのだろう。
そして何より、その進行方向の先には姉がいる。
このままでは確実にぶつかる。探索者である男は無事でも、一般人である姉が無傷で済むはずがないし、そもそも探索者の力を犯罪に使うなど論外で、同じ探索者として見過ごせる行為ではなかった。
「姉ちゃんはここに居て。俺が止める。」
そう言い残して地面を蹴り、一気に男との距離を詰めると、男もこちらに気付いたのか顔を歪めて声を荒げた。
「そこを退け!!ガキ!!」
威嚇と同時に右腕が大きく振りかぶられ、そのまま殴りかかってくるが、俺は全く動じることなく間合いに踏み込み、振り下ろされる拳の軌道を危機感知で正確に読み取り、わずかに体をずらすだけでその一撃を躱した。
空振りによって体勢を崩した男の腕をそのまま引き込み、重心を崩すようにして体を捻り、その勢いを利用して地面へと叩きつける。
「ぐはぁ!!」
鈍い衝突音と共に男の体が地面に打ち付けられ、その衝撃で肺の空気を吐き出すような苦しげな声が漏れるが、それも全て自業自得だ。
俺は落ちていた鞄を拾い上げて軽く汚れを払いながら、地面に転がる男を見下ろす。
「おい、ひったくり犯。これに懲りたらもう二度とするな。」
そう言い放つと、男は歯を食いしばりながらゆっくりと体を起こし、その目には明らかな敵意が宿っていた。やがてポケットに手を突っ込み、取り出したのは鈍く光るナイフだった。
「ガキが!!邪魔しやがって‥‥ぶっ殺してやる!!」
周囲から一斉に悲鳴が上がり、人々が距離を取る中で、男は迷うことなくこちらへ突っ込んでくる。
俺は内心で、はぁ‥‥と小さくため息をついた。せっかく見逃してやろうと思っていたのに、自分から事態を悪化させるとは、本当に救いようがない。
こうなった以上は手加減する理由もなく、確実に無力化することだけを考えて動こうとした、その瞬間だった。
群衆の中から一人の女性が飛び出してきた。その動きは明らかに常人のそれではなく、視界に入った時には既に間合いが詰められており、次の瞬間には男の体が地面に押さえつけられていた。
まるで抵抗する隙すら与えなかったかのような、圧倒的な制圧だった。
◇
女性に取り押さえられた犯人は、その後駆けつけた警察に引き渡され、これにて一件落着となり、騒動を聞きつけて集まっていた人々も次第にその場を離れていった。
俺も人の流れに紛れて姉ちゃんと共にその場を離れようとしたのだが、その背後から声を掛けられる。
「君‥‥大丈夫だった?」
振り返ると、先ほど犯人を取り押さえた女性がこちらを見ていた。一応、助けられた形になっている以上、無視するわけにもいかず、俺は軽く頭を下げる。
「はい、大丈夫です。助けてもらってありがとうございました。」
そう礼を言うと、女性はじっと俺の顔を見つめ始め、その視線にわずかな違和感を覚える。
「あの~~自分の顔に何か?」
「いや、君‥‥何処かで見たことがあるなって思ってさぁ‥‥君、名前は?」
「え??白瀬悠真です。」
名前を告げた瞬間、女性の表情がぱっと変わる。
「白瀬悠真‥‥あ!!思い出した。君、あのイベントに出ていた人だよね?」
どうやら、咲と共に出場したあのイベントを観戦していた人らしい。




