第7話「暴走する匂いと、迫る特定班」
深夜のキッチンで起きた、あの心臓が止まるかと思うような密着事件から一夜明けた日曜日の朝──
一階のリビングには、どこかちぐはぐで、ひどく息苦しい空気が充満していた。
僕はソファの端に座り、無言でテレビのニュース番組を眺めていた。そして、そのソファの反対側の端、距離にしておよそ一メートル離れた場所には、義妹の結愛がちょこんと体育座りをしてスマホをいじっている。
母親が不在のこの一週間、家の中で顔を合わせれば「死ね」「視界に入るな」と激しく罵倒し、自室に引きこもるのがこれまでの彼女のパターンだった。
だが、今日の結愛は違った。
僕がリビングにいればリビングに。僕がキッチンへ移動すれば、喉が渇いたふりをしてキッチンへ。露骨なまでに、僕の視界の端をウロウロと徘徊し続けているのだ。
「……ねぇ、結愛」
「なによ、気安く名前呼ばないでよ。あんたの声が鼓膜を震わせるだけで、全身が拒絶反応を起こして蕁麻疹が出そうなんだけど」
「それなら、なんでさっきから僕のいる部屋にずっといるんだよ。自分の部屋に戻ればいいだろ」
「はあ!? なんであんたの都合に合わせて行動を制限されなきゃいけないのよ!? あんたこそ私が目障りなら今すぐ家から出ていって、その辺のドブ川で一生泳いでればいいじゃない!」
相変わらずの機関銃のような暴言の連発。
だがその言葉とは裏腹に、彼女の視線は決して僕と交わろうとしない。スマホの画面を睨みつけながらも、その耳の先は微かに赤く染まっており、時折チラチラと僕の顔色を窺うような不自然な上目遣いをしてくる。
さらに僕の嗅覚は、彼女から漂ってくる「ある匂い」をはっきりと捉えていた。
結愛から香ってくるのは、彼女がいつも使っている高級フローラル系のシャンプーの匂いではない。ドラッグストアで特売されている、メントール配合の安っぽい男性用ボディソープの匂い……。
──間違いなく、僕が普段使っているやつだ。
昨夜、僕の黒いTシャツを着て、僕のマグカップを使っていた結愛。今朝は僕のボディソープを使って体を洗い、あまつさえ僕と同じ空間に留まろうとしている。まるで僕の匂い(痕跡)を全身に纏うことで、自分の中の何かを必死に補完しようとしているかのようだ。
(……怖い。怖すぎる)
僕はテレビの画面に視線を固定したまま、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。彼女のこの異常な執着はどこに向かおうとしているのか。Pに対する純粋な愛情と、義兄(僕)に対する歪な依存。その二つの感情が彼女の中で完全にバグを起こし、行動として表出している。
これ以上同じ空間にいると、僕の精神がもたない。
「……わかったよ。僕が部屋に戻るから好きにして」
僕はため息をつき、立ち上がってリビングを後にした。
階段を上る僕の背中に、「……別にいなくなれなんて言ってないし」という、蚊の鳴くような小さな呟きが聞こえた気がしたが、僕は聞かなかったふりをして自室へと逃げ込んだ。
自室のデスクに座り、パソコンの電源を入れる。息を吐き出しながら、プロデューサーとしての業務をこなすため、星降ルナの関連ワードでエゴサーチを始めた。
昨夜のシチュエーションボイス配信は結果的に大成功だった。「お兄ちゃん」をPに脳内変換した結愛の演技は、狂気すら感じるほどの生々しいヤンデレ感を醸し出し、リスナーたちを大いに熱狂させた。
だが、Xや匿名のネット掲示板を巡回していた僕の手が、あるスレッドのタイトルを見つけてピタリと止まった。
『【特定完了】星降ルナの居住地域、ガチで絞り込めたかも』
(……なんだと?)
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。僕はマウスを握る手に力を込め、そのスレッドを開いた。そこには、特定班と呼ばれる有志たちによる、恐ろしいほど執念深い検証作業のログが残されていた。
ターゲットにされていたのは、数日前の『クモ乱入事件』の時の手元配信のアーカイブ映像だ。
[クモが出た時、義兄が部屋に入ってきて窓を開けて捨てただろ? あの時、わずか数秒だけ、ルナのデスクに置いてあったレジン液のボトルの表面に、窓の外の景色が反射して映り込んでるんだよ]
[マジだ。拡大して明るさ調整したら、なんか赤いネオン看板みたいなのが見える]
[これ、チェーン店の〇〇〇じゃないか? 看板の形が完全に一致してる]
[しかも、あの時マイクが微かに環境音を拾ってる。「カンカン」って踏切の音だ。音のピッチと間隔からして、私鉄の〇〇線の可能性が高い]
[〇〇線の沿線で、窓から〇〇〇の看板が見える距離にある住宅街をGoogleアースで照らし合わせたら、〇〇市〇〇区のこのエリアしかありえないぞ]
僕は画面を見つめながら、全身の血の気が引いていくのを感じた。
特定班の推測は、完璧に的中していた。我が家の窓から見える赤いネオン看板。そして、すぐ近くを走る私鉄の踏切の音。それらのわずかな情報から、彼らは結愛の住んでいる地域を半径数百メートルのレベルまで絞り込もうとしていたのだ。
さらに悪いことに、スレッドの最後にはこんな書き込みがあった。
[今夜の配信でもう少し情報が出れば、完全に住所特定できるわ。凸(突撃)して、あの有能義兄ニキの顔でも拝みに行ってやるかw]
(マズい……! 冗談じゃないぞ!)
もし住所が特定されれば、星降ルナのVTuber生命が終わるどころの話ではない。
自宅周辺にストーカーや野次馬が現れるようになれば、僕たちの平穏な日常は完全に破壊される。何より、同じ家に住んでいる僕が『星降ルナのプロデューサー』であり『有能義兄』であることがバレてしまうリスクが跳ね上がる。
時計を見ると、時刻は午後一時。今夜も星降ルナの雑談配信が予定されている。このまま配信を行えば、特定班にさらなるヒントを与えることになりかねない。
僕は即座にスマホを手に取り、ボイスチェンジャーアプリを起動して、結愛の裏アカウントに通話をかけた。
三回のコールの後、少し弾んだような結愛の声がヘッドホンから響いた。
「Pさんおはようございます! 昨日の配信、アーカイブの再生数もすごくて──」
「ルナ、落ち着いて聞いて。緊急事態だ」
僕のただならぬ声色に、結愛の言葉がピタリと止まった。
「ネットの特定班が、君の住所を割り出そうとしている。数日前の手元配信で、レジンのボトルに反射した窓の外の景色と、踏切の環境音から、かなり正確なエリアまで絞り込まれているんだ」
「え……っ?」
結愛が息を呑む音が聞こえた。
「う、嘘……。住所がバレる? 私、何か悪いことしたの? どうしようPさん! 家がバレたら学校にも行けなくなるし、お母さんにも迷惑が……それに、あいつ(陸)にもVTuberやってることがバレて……」
パニックに陥り、過呼吸気味になる結愛の声。
僕はマイクに顔を近づけ、最大限の落ち着きと、彼女を包み込むような優しさを込めて言葉を紡いだ。
「深呼吸してルナ、大丈夫だ。君のことは僕が絶対に守る。特定班の目を欺く完璧なカウンター作戦を用意した」
「カウンター、作戦……?」
「ああ。連中の特定はまだ推測の段階だ。ここでまったく別の矛盾する確実な情報を叩きつけてやれば、連中の推理は根底から崩れ去る。今夜の配信は予定通り行うよ。ただし僕の指示通りに動いてほしい」
僕が作戦の全貌を説明すると、結愛は震える声で、しかし確かな信頼を込めて答えた。
「……わかりました。Pさんがそう言うなら私やります。Pさんのこと信じてますから……!」
午後八時──
星降ルナの雑談配信がスタートした。同接はすでに七千人を突破している。コメント欄は通常のファンに混じって、明らかに隙を窺っている特定班らしきアカウントがチラホラと見受けられた。
「こ、こんばんはー! 星降ルナです! みんな、今日も来てくれてありがとうっ!」
画面にはいつも通りルナの可憐なアバターが揺れている。
だがその裏で僕は、自室のパソコンで『ある音声ファイル』を準備していた。それは、僕が昼間のうちにフリー音源サイトから探し出し、専用のソフトで音質や残響を加工して『いかにも窓の外から聞こえてきた環境音』のように調整したフェイクの音声だ。
結愛の部屋の壁は薄い。僕の部屋のスピーカーを壁際にぴったりと密着させ、大音量で音を鳴らせば、隣の部屋で配信している結愛のマイクが、それを環境音として拾うはずだ。
「今日はね、みんなとお話ししたいことがたくさんあって」
結愛が台本通りに自然な雑談を始めたその直後、僕はタイミングを見計らい、壁際のスピーカーの再生ボタンを押した。
パラパラパラ……ザァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!
隣の部屋の結愛のマイクが、僕の鳴らした爆音をしっかりと拾って配信に乗せた。それはバケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨の激しい雨音だった。
リスナーたちが即座に反応する。
[うわ、すごい雨の音!]
[ルナちゃんのところ、めっちゃ雨降ってない!?]
[マイクに入るレベルの豪雨やばいな]
[えっ、ルナちゃん大丈夫? 窓開いてない?]
結愛は僕の書いた台本通りに、少し驚いたような演技をして見せた。
「わっ、びっくりしたぁ……。ごめんなさい、突然すごい雨降ってきちゃって。窓閉めてるんですけど、雷も鳴りそうですね。……えっと、ちょっと外見てきますね」
結愛はわざと足音を立ててマイクから離れ、数秒後に戻ってきた。
「うん、やっぱりすごい土砂降りです。この辺りは今日の夜から大雨警報が出てるみたいで。みんなの住んでる地域は大丈夫ですか?」
僕は別のモニターで、特定班が立てていた掲示板のスレッドを監視していた。スレの住人たちが一斉に混乱し始めたのがわかった。
[おい待て! 〇〇市〇〇区、今めっちゃ晴れてるぞ! 星出てるわ!]
[マジで? 雨雲レーダー見ても、〇〇県の周辺には雨雲なんて一つもないが……]
[ってことは、前の配信の踏切の音とか、看板の反射の考察は全部ハズレだったってことか!?]
[豪雨警報が出てるのって、今夜は九州地方とか西日本の一部だけだぞ!]
[なんだよ、関東近郊だと思ってたのに、ルナちゃん西日本住みなのかよ!]
(よしっ……! 引っかかった!)
僕は暗い自室の中で力強くガッツポーズをした。
現実の天候という、絶対に誤魔化しのきかない自然現象をフェイクとしてぶつけたことで、特定班の推理は完全に振り出しに戻ったのだ。これでもう、我が家の周辺が特定されるリスクは限りなくゼロに等しくなった。
配信はその後も結愛の完璧なトークによって和やかに進んだ。雨の音を『天候が悪くて配信が不安定になるかもしれない』という言い訳にも利用し、一時間ほどで無事に配信は終了した。
「おつルナでしたー! みんな、雨の日は気をつけてね! バイバーイ!」
配信終了のボタンが押され、OBSの画面が暗転したのを確認した瞬間、僕のDiscordに結愛から着信が入った。通話ボタンを押すと、ヘッドホンから結愛の興奮しきって熱を帯びた声が飛び込んできた。
「Pさん見ましたか!? 掲示板の人たち、完全にPさんの作戦に騙されてました!」
「ああ。よくやったルナ。君の自然な演技のおかげだ」
「ううん、全部Pさんのおかげです! Pさんが用意してくれた雨の音、本当に外で降ってるみたいで、私すごく安心しました。Pさんが私を守ってくれたんですね……」
結愛の声が、甘くとろけるような響きを帯びていく。
「Pさんって本当にすごい! 私の危機をあっという間に救ってくれて、魔法使いみたい。……ねえ、Pさん」
「ん? どうした?」
「私、もうPさんがいないとダメみたいです。Pさんの声を聞いて、Pさんの指示通りに動いている時が一番幸せなんです。……早く、早くPさんに会いたい! 会って、Pさんの全部を私だけのものにしたい……」
その声に込められた、純度100%の依存と執着。
僕はボイスチェンジャー越しに「……僕も、君の成長を楽しみにしているよ」と当たり障りのない言葉を返すのが精一杯だった。
通話を切り、僕はどっと押し寄せてきた疲労感に大きく背伸びをした。特定班の危機は去ったが、その代償として、星降ルナのPへの盲信はさらに深まってしまった。
喉が渇いた。僕はヘッドホンを外し、一階のキッチンへ向かうために部屋を出た。
薄暗い廊下を歩き、リビングのドアを開ける。そこには僕の想像もしていなかった光景が広がっていた。
ソファの上で、結愛が丸くなって眠っていたのだ。
配信の疲れが出たのだろう。パジャマ姿の彼女は、スースーと規則正しい寝息を立てており、普段の凶暴さが嘘のように無防備で可愛らしい顔をしている。だが、僕の視線は彼女の顔ではなく、彼女が胸の前にぎゅっと抱きしめている『それ』に釘付けになった。
彼女が抱きしめていたのは、僕が数日前に紛失したはずの、ネイビーブルーの『右足用靴下』だった。
「…………っ」
僕は息を呑み、その場に立ち尽くした。
バーチャルの世界では『P』に救われ、狂気的な愛情を向けている義妹。だが現実の世界では、僕に暴言を吐きながらも、夜中に僕の靴下を抱きしめないと眠れないほど僕の匂い(痕跡)に深く依存している。
「Pと陸」二つの顔を持つ僕への、二つの異なる執着。
もしこの二つの感情が交わり、Pの正体が僕であると彼女が知ってしまった時、この歪なバランスは一体どんな爆発を引き起こすのか。
ソファで眠る結愛のあどけない寝顔を見下ろしながら、僕は逃げ場のない密室の中で真綿で首を絞められるような、甘く恐ろしい絶望感にゆっくりと包まれていくのを感じていた。
二人きりの一週間はまだ始まったばかりだ。




