第6話「密室の一週間と、声なき通話レッスン」
玄関のドアが重たい音を立てて閉まり、外から鍵がガチャリとかかる音が家中に響き渡った。
「じゃあ、一週間よろしくね! 戸締まりと火の元だけは気をつけるのよー!」
ドアの向こうから聞こえる母親の能天気な声と、ガラガラと遠ざかっていくキャリーケースの車輪の音。その音が完全に路地の奥へと消え去った瞬間、我が家には鼓膜が痛くなるほどの、ひどく重たくて異様な静寂が舞い降りた。
金曜日の午後七時──
パート先の研修旅行に出かけた母親の宣言通り、この瞬間から来週の木曜日に至るまで、この家は僕と結愛二人だけの完全な密室となる。
リビングのソファでは、結愛が膝を抱えてスマホの画面を睨みつけながら微動だにしないでいた。僕と二人きりという空間がよほど耐え難いのか、彼女の周囲には目に見えるほどのドス黒いオーラが立ち込めている。下手に声をかければ、即座に喉笛を噛みちぎられそうなほどの緊張感だ。
「……夕飯、冷蔵庫にタッパー入ってるってさ。温めて食べる?」
なるべく刺激しないように平坦な声を作って尋ねてみる。結愛は僕の方を一切見ようともせず、親の仇にでも向けるような冷たい声で吐き捨てた。
「あんたと同じ空気吸いながらご飯なんて食べてられないから。私にご飯食べさせたいなら、あんたは今すぐ庭に布団でも敷いて、そこで寝泊まりして」
「……そう、じゃあ好きに食べなよ」
僕は短くため息をつき、そのままリビングを後にして二階の自室へと向かった。
相変わらずの狂犬ぶりだ。だが今の僕には彼女の暴言に傷ついている暇などない。むしろ彼女が僕を避けてくれるならその方が好都合だった。
なぜならここ数日の彼女の「裏の顔」──僕の私物を嗅ぎ回り、靴下やシャーペンの部品を盗んでレジンに閉じ込めるという常軌を逸したヤンデレ的執着が、いつ暴発するか気が気ではないからだ。
一週間、何事もなく無事に過ぎ去ってくれることだけを祈りながら、僕は自室のパソコンの電源を入れた。
翌日、土曜日の夜──
星降ルナのチャンネルでは、三回目となる生配信が行われていた。今日の企画はリスナーからのリクエストに応える『シチュエーションボイス(台詞読み)』のコーナーだ。
登録者数が五万人を突破し、期待値が跳ね上がっている中での配信。プロデューサーとしての僕はあらかじめ用意しておいた台本を結愛に渡し、しっかりと練習しておくように伝えてあった。
だが、配信が始まって三十分。モニターの前で僕は頭を抱えていた。
「お、お兄ちゃん……っ、朝だよ。早く起きないと、ちっ、遅刻しちゃうぞ……っ」
画面の向こうでルナのアバターが申し訳程度に揺れながら、結愛が台本のセリフを読んでいる。設定は『甘えん坊でちょっと照れ屋な妹が、大好きな兄を起こしに来る』という王道のシチュエーション。しかし、結愛から発せられる声は控えめに言っても大惨事だった。
声自体は可愛らしく作っているものの、語尾には隠しきれない殺意が滲み、セリフの合間には舌打ちに近い息継ぎが混ざっている。何より感情が完全に死滅したロボットのような棒読みなのだ。
待機所のコメント欄も、その異変に素早く反応していた。
[ルナちゃん、なんかキレてる?w]
[親の仇を起こしに来た妹]
[声はめちゃくちゃ可愛いのにオーラが怖い]
[ツンデレ通り越してただのツン]
[お兄ちゃんに恨みでもあるのかな?w]
[ドス効いてて逆に助かる]
[妹キャラ苦手か?]
リスナーたちは面白がってくれているが、結愛本人はコメント欄の反応を見て明らかに動揺し、パニックに陥り始めていた。
「あ、ち、違いますっ! 怒ってないです! もう一回、もう一回やりますね! ……お、お兄ちゃん! ほら、起きて! ……っ、だ、ダメだ、どうしてもイライラしてきちゃう……っ」
(……そりゃそうだろうな)
僕は深くため息をついた。無理もない。彼女にとって「兄」という存在は、家の中で毎日顔を合わせる「ウザくて汚らわしい存在」そのものなのだ。台本にある『大好きなお兄ちゃん』という概念そのものが、彼女の脳内では完全にバグを引き起こしているらしい。
結局その日の配信はグダグダのまま、結愛が半泣き状態で謝罪を繰り返して終わってしまった。
配信終了から十分後──
僕の裏アカウントのDiscordに、結愛から大量のメッセージが着弾した。
『Pさん、ごめんなさい!』
『せっかくPさんが用意してくれた台本なのに、全然うまくできなくて……』
『私、お兄ちゃんって言葉を口にするだけで、現実の最低な家族の顔がチラついてどうしても声が冷たくなっちゃうんです……』
『リスナーさんたちも呆れてたと思います。才能ないのかな……』
文面からでも、彼女が部屋でボロボロと泣いているのが手に取るようにわかった。僕はスマホを握りしめ、少しの間思考を巡らせた。
VTuberとしての星降ルナの最大の武器は、その危うさと可憐さのギャップだ。ここで自信を喪失させてしまえば、せっかくの勢いが完全に死んでしまう。現実の兄に対する嫌悪感が演技の邪魔をしているのなら、その認識そのものを上書きしてやるしかない。
僕は覚悟を決め、キーボードを叩いた。
『ルナ、落ち込まなくていい。演技のコツを掴むために、今から僕が直接通話でレッスンをしてあげる。声を出せるかい?』
送信してわずか三秒──画面に『着信中』のポップアップが表示された。僕は急いで高性能ボイスチェンジャーを起動し、マイクの感度を極限まで下げて通話ボタンを押した。
「……もしもし、ルナ。泣かないで」
「Pさんっ……ぐすっ、ごめんなさい、私、ダメなタレントで……」
ヘッドホンから聞こえてくる結愛の声は、鼻声でひどく震えていた。壁一枚隔てた隣の部屋からも、彼女がしゃくりあげる微かな生音が聞こえてくる。
僕は息を殺し、マイクに唇が触れるほど顔を近づけて、極限のウィスパーボイスで語りかけた。僕の生声が隣の部屋に漏れないよう、しかしボイスチェンジャーには『Pの落ち着いた低音』として出力されるように。
「ダメじゃないよ。君の声質は素晴らしい。ただ感情の向け方を間違えているだけだ」
「感情の向け方……?」
「ああ。君は台本の『お兄ちゃん』という言葉に、現実の家族を当てはめてしまっているだろう? だから声が硬くなるんだ。演技の基本は想像力だ。対象をすり替えればいい」
僕は慎重になりつつも力強く言葉を紡いだ。
「いいかい、ルナ。台本にある『お兄ちゃん』を、君が世界で一番信頼していて、心から甘えたいと思っている相手……例えばこの僕だと思ってもう一度読んでみてほしい」
「……えっ?」
ヘッドホンの向こうで結愛が大きく息を呑む音が聞こえた。隣の部屋の気配が一瞬にして硬直したのがわかる。
「P、さんを……私が、起こしにいく……?」
「そうだ。僕がベッドで眠っている。君は僕の部屋に入ってきて、僕の顔を覗き込みながら優しく微笑みかける。……想像できたかい?」
「…………っっ」
長い沈黙──
やがて隣の部屋から、ゴクリと生唾を飲み込むリアルな音が聞こえたような気がした。
「……や、やってみます。Pさんを起こすつもりで……」
「ああ、いつでもいいよ。ゆっくりと君のペースで」
僕はマイクをミュートにし、息を潜めて彼女の第一声を待った。
「お兄ちゃん……」
ヘッドホンから流れてきたその声に、僕は全身の産毛が逆立つほどの衝撃を受けた。
先ほどの配信での刺々しさは完全に消え失せている。砂糖を煮詰めたように甘く、それでいてどこか粘り気のある、ひどく艶めかしい声色。
「朝、だよ……。早く起きないと……私、お兄ちゃんのこと、ずっとずっとこのまま……閉じ込めちゃうよ……?」
台本にはない勝手なアドリブ。
だがその言葉に込められた熱量は凄まじかった。純粋な愛情と底なしの執着がないまぜになった圧倒的なヤンデレの波動。
「ねえ、起きて。私の声聞こえてる? 私だけを見て……私だけのお兄ちゃんでいて……っ」
(ヤバい……ヤバいヤバいヤバい!)
僕はヘッドホンを外したくなるほどの恐怖と変な汗に包まれていた。
彼女の演技は完璧だ。完璧すぎる……。だがその強烈な感情の矛先が「P」に向けられていると同時に、彼女が口にしている「お兄ちゃん」という言葉が、現実の義兄である僕の存在と奇妙にリンクしてしまい、脳がバグりそうになる。
「……す、素晴らしいよ、ルナ。今の感情の込め方は完璧だ。それだよ、その感覚を忘れないで」
僕は震える声をボイスチェンジャーで隠しながら、必死にプロデューサーとしての称賛を送った。
「ほ、本当ですか……!? 私、Pさんのこと想像したら……なんだか胸の奥がすごく熱くなって、勝手に言葉が出てきちゃって……」
荒い息を吐きながら結愛が嬉しそうに報告してくる。
「私、わかりました! 次の配信からは、相手を全部Pさんだと思って演技します! Pさんに向けて話しかければ、私なんだってできる気がします!」
「そ、そうか。それは頼もしいな……。じゃあ、今日のレッスンはここまでにしよう。ゆっくり休んで」
「はいっ! Pさん、夢に出てきてくださいね。おやすみなさい、大好きです!」
通話が切れた瞬間、僕は机に突っ伏して深く長く息を吐き出した。シャツの背中が冷や汗でべったりと張り付いている。
演技指導としては大成功だが、彼女の中で「Pへの狂信的な愛情」をさらに育ててしまったのではないかという罪悪感と恐怖が、ずっしりと胃にのしかかっていた。
現在時刻は深夜二時──強烈な精神的疲労からか、無性に喉が渇いていた。
僕は軋むゲーミングチェアから立ち上がり、抜き足差し足で部屋を出て一階のキッチンへと向かった。家の中は水を打ったように静まり返り、常夜灯の薄暗い光だけが廊下を照らしている。
結愛は自分の部屋にいるはずだ。今の通話の直後なのだから、興奮冷めやらぬままベッドで横になっているだろう。そう高を括り、無防備にキッチンの入り口に足を踏み入れたその時だった。
「……っ!?」
冷蔵庫の前に、人影があった。薄暗いキッチンで、冷蔵庫のわずかな動作音だけが響く中、その影は流し台の前に立って何かを両手で大切そうに包み込むようにして持っていた。
結愛だった。
彼女は暗闇の中、僕がいつも使っている黒いマグカップを両手で持ち、それに口をつけて、ゆっくりとまるで何かを確かめるように水を飲んでいたのだ。
ただ水を飲むだけならどのコップを使おうが勝手だ。だが我が家では「陸の使った食器なんて気持ち悪くて触れない」と結愛が主張したため、食器類は完全に別々に分けられているはずだった。
その彼女が、深夜の暗闇でよりにもよって僕専用のマグカップに唇を押し当てている。しかも彼女がパジャマ代わりに着ているのは……今朝、僕が洗濯カゴに出しておいたはずの僕の黒い無地のTシャツだった。ダボダボの首元から華奢な鎖骨が覗き、裾は彼女の太ももの中腹まで完全に覆い隠している。
背筋が凍りついた──
僕の存在を抹消したがる彼女が、僕の服をまとい、僕のマグカップで喉を潤している。それはもはや愛情でも嫌悪でもなく、僕という存在を自分の中に取り込もうとするような、純粋で狂気的な「浸食の儀式」に見えた。
「……結愛、何して……」
思わず、掠れた声が口を突いて出た。ビクンッと結愛の肩が大きく跳ねた。彼女は弾かれたように振り返り、僕の姿を視界に捉えた瞬間、その大きな瞳を限界まで見開き顔面を蒼白にさせた。
「あ……っ、ちが、これは……っ!」
極限のパニックに陥った結愛の手から黒いマグカップが滑り落ちた。ガシャン! という派手な音と共に、陶器の破片と水がキッチンの床に散乱する。
「あっ、きゃっ……!」
慌てて後ずさりしようとした結愛の裸足が、こぼれた水の上でツルリと滑った。彼女の体がバランスを崩し、鋭い陶器の破片が散らばる床へ向かって無防備に倒れ込んでいく。
「危ないっ!!」
思考より先に、体が動いていた。僕は床を蹴って飛び込み、倒れゆく結愛の細い腰を力任せに引き寄せた。
ドンッという鈍い衝撃と共に、僕の背中がキッチンのフローリングに強く打ちつけられる。僕の胸の上には、僕の黒いTシャツを着た結愛がすっぽりと収まるようにして倒れ込んでいた。
「いっ……てて……」
背中の痛みに顔をしかめながら目を開けると、そこには信じられないほど至近距離に結愛の顔があった。暗闇の中でもはっきりとわかるほど、彼女の顔は耳の先まで真っ赤に染まり上がり、大きな瞳には涙が浮かんでいる。彼女の濡れた唇が微かに震え、そこから吐き出される甘い息が僕の鼻先を掠めた。そして、彼女が身にまとっている僕のTシャツから、僕自身の使っている柔軟剤の香りと、彼女の甘いシャンプーの匂いが生々しく混ざり合って僕の嗅覚を殴りつけてきた。
「……ケガ、ないか?」
僕が掠れた声で尋ねると、結愛はハッと我に返ったように体を強張らせた。
「さ、触んないでよっ!!!」
彼女は僕の胸を両手で思い切り突き飛ばしてバタバタと立ち上がった。
「この変態! ストーカー! わざと暗闇で待ち伏せしてたんでしょ! 気持ち悪い! 汚い! 死んでよバカ陸っ!!」
破れかぶれのような裏返った絶叫。
彼女は床に散らばったマグカップの破片など見向きもせず、自分の着ている僕のTシャツの裾をギュッと握りしめたまま、逃げるように階段を駆け上がっていった。
バタン! ガチャリ!二階からドアを乱暴に閉めて鍵をかける音が響く。
キッチンの冷たい床に仰向けのまま取り残された僕は、ズキズキと痛む背中と異常な早鐘を打つ自分の心臓の音を聞きながら、ゆっくりと天井を仰いだ。
母親の不在により始まった、密室での一週間。
まだ一日目すら終わっていないというのに、僕と結愛の境界線はすでに致命的なレベルで溶け崩れようとしていた。僕を心の底から軽蔑しているはずの彼女が、なぜ僕の匂いと痕跡にそこまで執着するのか。そして、完璧に演じ切ったあの「お兄ちゃん」という言葉の裏に隠されていた本物の熱情の正体は──。
割れたマグカップの破片を拾い集めながら、僕は得体の知れない恐怖とほんのわずかな甘い毒に、自分の精神がじわじわと侵食されていくのを感じていた。
二人きりの一週間はあと六日も残されている。




