第5話「エスカレートする手元と、消える靴下」
自室のクローゼットの前で、僕は完全に途方に暮れていた。
時刻は水曜日の朝七時──登校の準備をしなければならない時間だというのに、僕の視線は無残にひっくり返された靴下入れの引き出しに釘付けになっていた。
ない……いくら探しても、お気に入りだったはずのネイビーブルーのくるぶし丈ソックスの右足用だけが、神隠しにでも遭ったかのように忽然と姿を消しているのだ。ただの紛失なら、どこかに落としたかな? で済む話だ。だが、ここ数日の僕の身の回りでは、あまりにも不可解な『消失事件』が相次いでいた。
三日前は、数学の授業でいつも使っていたシルバーのシャープペンシル。二日前は、洗面所に置いておいた僕専用の洗顔用ヘアバンド。そして今朝は、靴下の右足だけ。どれもこれも、高価なものではない。だが、確実に僕が日常的に使用し、僕の指紋や汗……要するに僕の痕跡が色濃く残っている私物ばかりだった。
背筋を嫌な汗が伝い落ちる。脳裏にフラッシュバックするのは、先週の金曜日、僕の脱ぎ捨てたグレーのパーカーに顔を埋め、陶酔しきった表情で匂いを嗅ぎ狂っていた義妹・結愛の姿だ。まさかとは思うが、彼女が僕の私物を組織的かつ計画的に収集しているのではないか……。
あのパーカー事件以降、夜中になると壁を隔てた結愛の部屋から、ゴソゴソ、カサカサという、まるで小動物が巣作りをしているかのような不審な物音が聞こえてくるようになった。それは決まって、僕が寝静まったであろう深夜二時頃に始まるのだ。
「……いや、考えすぎだろ。いくらなんでも靴下の片方だけ盗んでどうするんだよ」
僕は無理やり自分の思考を打ち消し、適当な別の靴下を履いて部屋を出た。一階の洗面所へ向かおうと廊下を歩いていたその時、前方からパジャマ姿の結愛が歩いてきた。寝起きらしく、長い髪が少し乱れている。
僕の姿を視界に捉えた瞬間、彼女の顔からスッと表情が抜け落ち、絶対零度の冷たい目つきに変わった。
「……チッ。朝からウザい顔見せないでよ。空気が汚れる」
すれ違いざまに吐き捨てられる、いつも通りの容赦ない暴言。
だが、今日の僕は見逃さなかった。僕を睨みつける彼女の顔が、ほんのりと熱を帯びたように赤らんでいること。そして、彼女が胸の前に抱え込むようにして持っていた洗濯ネットの中に、見覚えのあるネイビーブルーの布切れが丸まって隠されていることを──。
「おい、結愛。お前が持ってるそのネットの中身──」
「はあ!? なによ! 気持ち悪い、私の下着ジロジロ見ないでよこの変態! 盗撮魔! 近寄ったら警察呼ぶからね!」
僕が声をかけた瞬間、結愛は弾かれたように後ずさりし、洗濯ネットを背中に隠してものすごい剣幕で怒鳴り散らした。その顔は今度こそ、耳の先まで真っ赤に染まっている。
「いや、下着じゃなくて、その青い……」
「死ね! 今すぐ息を止めて死ね! 視界に入るなバカ陸!」
結愛は僕のすねを思い切り蹴り飛ばすと、ドタバタと大きな足音を立てて二階の自室へと逃げ帰ってしまった。
廊下に取り残された僕は、蹴られたすねの痛みに顔をしかめながら確信した。間違いない。あいつは僕の靴下を盗んだ。しかも、わざわざ自分の洗濯物と一緒に……あるいは自分自身の手で、丁寧に手洗いでもしようとしていたのか。
家の中では僕を毛嫌いし、罵倒し、触れることすら汚らわしいという態度をとりながら、裏では僕の私物を集めてコレクションしている義妹。その歪な愛情表現は、日に日にエスカレートしていくばかりだった。
その日の夜──
我が家のダイニングテーブルは、珍しく不気味な緊張感に包まれていた。
いつもは夜勤のパートで不在がちな母親が、今日はたまたま休みを取っており、僕と結愛、そして母親の三人で食卓を囲んでいたのだ。食卓には唐揚げやサラダが並んでいるが、僕も結愛も無言で箸を動かしている。僕がソースを取ろうと手を伸ばし、偶然結愛の手と触れそうになった瞬間、彼女はヒッと短い悲鳴を上げて手を引っ込め、あからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
そんな僕たちのギスギスした様子を、母親は味噌汁を啜りながら、どこか楽しげで、ニヤニヤとした目で見つめていた。
「……あんたたち、本当に昔から変わらないわねぇ。いつも喧嘩ばっかりして」
母親の唐突な言葉に、僕と結愛は同時に顔を上げた。
「別に喧嘩なんてしてないよ。結愛が一方的に俺に突っかかってくるだけだし」
「はあ!? 陸がそこにいるだけで私に迷惑かけてるんでしょ! 息してるだけで公害なんだから!」
「ほらほら、そこまでにしなさい。でもね、お母さん、最近ちょっと考え方が変わったのよ」
母親は箸を置き、両手を頬に当ててうっとりとしたため息を吐いた。
「あんたたちも、もう高校生じゃない? 昔は兄妹として仲良くしてほしいって思ってたけど……血も繋がってない年頃の男女が、同じ屋根の下で暮らしてるのよね。むしろ、意識し合ってギクシャクする方が自然っていうか」
(……嫌な予感がする)
僕は箸を持つ手を止め、全身の毛穴が閉じるのを感じた。結愛もまた、唐揚げを口に運んだまま完全にフリーズしている。
「だからね、お母さんは決めたの。もしあんたたちが、兄妹としてじゃなく、男と女として惹かれ合うようなことがあっても、お母さん絶対に反対しないから! むしろ大歓迎よ! 近いうちに孫の顔が見られるかもって、最近パート先でも自慢してるんだから!」
「ブゥッッッ!!!!??」
結愛が口に含んでいた麦茶を、盛大に宙に向かって吹き出した。
「な、ななななな何を言い出すのよお母さん!? 頭おかしくなったの!? 誰がこんな、こんなゴミ虫みたいな義兄なんかと……っ! 死んでもありえないから! 鳥肌立った! 気持ち悪い!!」
結愛は顔を真っ赤……いや、赤を通り越して茹でダコのようにドス黒く染め上げながら、椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。
「あ、ありえない! 絶対にありえない! 私には……私には、心に決めた運命の人がいるんだから!」
(……それ、僕(P)のことだよね……)
僕は胃が千切れそうな痛みに耐えながら、心の中でひっそりとツッコミを入れた。運命の人は、お前の目の前で麦茶のしぶきを浴びて死んだ魚の目をしている義兄だよ、と……。
「あらあら、結愛ったら照れちゃって。可愛いわねぇ。でもね、お母さんが言いたいのはここからなの」
母親は結愛の絶叫をどこ吹く風と受け流し、さらにとんでもない爆弾を投下した。
「実はね、お母さん、明後日の金曜日から来週の木曜日まで、パート先の研修旅行で一週間ほど大阪に行くことになったのよ」
「……へ?」
僕の口から、間抜けな声が漏れた。
「だから、この週末からの丸一週間、この家はあんたたち二人だけってこと。冷蔵庫に作り置きはしておくけど、食事も掃除も二人で協力してやりなさいね。陸、お兄ちゃんなんだから、結愛のことしっかり守ってあげるのよ? ……フフッ、一週間も若い男女が二人きり……何かが起きない方がおかしいわよねぇ」
母親はウィンクをして見せたが、僕の視界は真っ暗に染まっていた。
一週間、二人きり──
僕の私物を収集し、夜な夜な謎の奇行を繰り返し、僕の服の匂いで精神を安定させている『超弩級の隠れヤンデレ義妹』と、この密室で一週間も二人きりで過ごさなければならない?
「……っ! 私、部屋戻る!」
結愛は母親の言葉に限界を迎えたのか、真っ赤な顔を両手で覆い隠すようにして、逃げるようにダイニングから駆け出していった。階段をドタバタと駆け上がる音が響き、やがて二階で激しくドアが閉まる音がした。
残された僕は、冷え切った唐揚げを見つめながら、自分の平穏な日常が完全に崩壊していく足音を確かに聞いていた。
そして迎えた、木曜日の夜──
星降ルナの二回目となる『手元配信』の時間がやってきた。
先週のハプニングによるバズり効果は凄まじく、本日の待機所にはすでに三千人を超えるリスナーが詰めかけていた。前回のP(僕)との通話で、「十万人いったら直接会う」という約束を取り付けて以来、結愛の配信に対するモチベーションは完全に限界突破している。
自室のパソコン前で、僕はプロデューサーとしてOBSの画面を監視しながら、ボイスチェンジャー越しに最終確認を行っていた。
「ルナ、カメラの画角は完璧だ。照明もいい。今日の企画は『Pさんへのプレゼント作り』だったね。リスナーの反応もいいはずだ。頑張ろう!」
「はいっ、 Pさん! 私、今日のためにめちゃくちゃ練習したんです! Pさんへの愛情を画面越しに全力で伝えますから、ちゃんと見ててくださいね!」
イヤホンから聞こえてくる結愛の声は、甘く、熱く、そしてどこか危険なほどの熱量を帯びていた。
午後八時──配信開始のボタンを押す。
「こんばんはーっ! 星降ルナです! みんな、今日も待っててくれてありがとうっ!」
画面に映し出されたのは、いつもの真っ白なデスク。だが、そこに現れた結愛の手元と服装を見た瞬間、僕はパソコンの前で危うく椅子から転げ落ちそうになった。
彼女は、ダボダボのグレーの長袖パーカーを着て、その長い袖をまくり上げるようにして白い指先を覗かせていたのだ。リスナーたちが即座に反応し、コメント欄が滝のように流れ始める。
[ルナちゃん、その服!]
[彼シャツ!?]
[デカめのパーカーから出る手、最高すぎる]
[完全に事後]
[清楚どこいった!]
リスナーたちは『あざとい』『可愛い』と大盛り上がりだが、僕の心臓は別の理由で早鐘を打っていた。
間違いない。あのグレーのパーカーの袖口にある小さなインクのシミ……あれは、僕が学校の美術の授業でつけてしまったシミだ。結愛は、あの時僕に見られて必死に隠したはずの僕のパーカーを、あろうことか全世界に向けて生配信する衣装として堂々と着用しているのだ。
(お前……なんて心臓の強さをしてるんだ……! いや、違う。これはPへのアピールでありながら、僕の匂い(パーカー)に包まれていないと精神が持たないから……!?)
恐怖で震える僕をよそに、配信の中の結愛は楽しそうに作業を始めた。
「今日はね、私が世界で一番大好きなPさんに向けて、レジンでお守りアクセサリーを作りたいと思いますっ!」
彼女の手元には、UVレジン液、シリコンモールド、ピンセット、そしていくつかの『封入パーツ』を入れた小さな小皿が用意されていた。
「Pさんって、いつもすごく忙しそうで、私のためにたくさん無理してくれてるから、少しでも私のことを身近に感じてほしくて……私にとっての特別を、このレジンの中に閉じ込めようと思うんです」
可憐な声で語りながら、結愛はピンセットで器用にパーツを配置していく。
リスナーたちは『P羨ましすぎる!』『俺もルナちゃんの手作りお守り欲しい』『ていうか、ルナちゃん今日なんか色っぽくない?』とすっかり魅了されている。
だが、画面を凝視していた僕の目は、その小皿の中に置かれた『異常なパーツ』をハッキリと捉えていた。
そこには、キラキラ光るラメやホログラムに混じって、見覚えのある小さな金属のバネと、短く切られたネイビーブルーの繊維が置かれていたのだ。
(……シャープペンシルのバネ……!? まさか、僕の無くなったシャーペンを分解したのか!? そしてあの青い糸は……僕の靴下の繊維!?)
「ヒッ……」
僕は思わず、ボイスチェンジャーをミュートにしたまま短い悲鳴を漏らした。
結愛は僕の私物を分解し、その一部を『Pへの愛の証』としてレジンに封入しようとしている!
現実の義兄(陸)への異常な執着と、バーチャルのプロデューサー(P)への純粋な愛情。本来なら決して交わるはずのない二つの巨大な感情が、結愛の中で完全にマーブル状に溶け合い、ひとつの歪な結晶として生み出されようとしていた。
「……ふふっ。これ、なんだと思います? 秘密ですけど、私の一番近くにある大切なものの欠片なんです。これを入れれば、Pさんと私は、ずっとずーっと一緒になれる気がして」
結愛がピンセットで僕の靴下の繊維をつまみ、透明なレジン液の中にそっと沈める。その声は甘く、とろけるように優しく、そして底知れぬ狂気を孕んでいた。
[なんか今日のルナちゃんヤンデレっぽくて最高]
[ASMRでこれ聞きたい]
[愛が重い! いいぞもっとやれ!]
コメント欄は、これを完全に『エンタメとしての高度なロールプレイ』だと解釈して熱狂している。しかし、唯一真実を知る僕だけは、モニターの前でガタガタと震えが止まらなかった。
これは演技じゃない。彼女は本気だ。本気で僕の所有物を使ってPへの呪具(お守り)を錬成しているのだ。
もし、もし彼女が「P=陸」だと知ったら……。
このレジンに閉じ込められたように、僕の人生すべてが、彼女の狂気的な愛情の中に永遠に封印されてしまうのではないか。
「よしっ、UVライトで固めますね! ……Pさん、見ててくれてますか? 私、Pさんのためにもっ」
カメラに向かって、袖から覗く美しい指先が、小さくハートの形を作った。
配信は大成功。同時接続者数は五千人を突破し、スーパーチャットの嵐が画面を埋め尽くして終わった。
配信終了から一時間後──
心労でゲッソリと痩せこけたような気分になりながら、僕は喉の渇きを潤すために一階のキッチンへ向かった。
階段を下りようとした時、目の前の廊下を、お風呂上がりらしい結愛が歩いているのが見えた。髪からはシャンプーの甘い香りが漂い、その手には、先ほどの配信で作り上げた『特製レジンキーホルダー』がしっかりと握りしめられている。
彼女は自分の部屋に入ろうとしてドアノブに手をかけたが、ふとした拍子に手元が滑り、そのキーホルダーを廊下の床に落としてしまった。
カチャッと、硬いプラスチックの音が響く。
結愛が拾おうと屈むより早く、後ろを歩いていた僕が無意識に手を伸ばし、それを拾い上げた。
「……落としたよ」
透明なレジンのドーム型の中に、キラキラと輝く星の砂と共に、僕のシャープペンシルのバネと、靴下の青い繊維が綺麗にレイアウトされている。間近で見るとそれは奇妙なほど美しく、そして呪わしい完成度を誇っていた。
「あっ……!」
僕がそれを拾い上げた瞬間、結愛の顔色が一瞬にして蒼白になり、次いで爆発するような朱色に染まり上がった。
「触んないでよっ!!!」
ひったくるように僕の手からキーホルダーを奪い返すと、結愛は僕を鬼のような形相で睨みつけた。
「あんたみたいな汚い手で触らないで! 菌がつく! これは……これは、私の世界で一番大切な人にあげるための、すごく神聖なものなんだから!」
「……そう、悪かったよ」
僕はわざと無関心を装いながら、努めて平坦な声で返した。彼女はキーホルダーを胸に抱きしめるようにして、僕に背を向けた。
「……陸のバカ! あんたなんか一生、誰からも愛されずに孤独死すればいいのよ」
それだけを吐き捨てて結愛は自分の部屋に逃げ込み、バタンとドアを閉めた。直後、内側からガチャリと鍵をかける音が響く。
暗い廊下に一人取り残され、僕は自分の右手を見つめた。
先ほどキーホルダーを拾った時、ほんの数秒だけ触れた彼女の指先。それはひどく冷たくて、微かに震えていた。
『世界で一番大切な人にあげるためのもの』
そう言って彼女が抱きしめていたそのキーホルダーの中には、他でもない『僕自身の痕跡』が閉じ込められているのだ。
明日から母親が不在になる一週間が始まる。この狂気に満ちた愛と憎しみが表裏一体となった義妹と、二人きりの密室生活。プロデューサーとしての理性を保ちながら、僕は果たしてこの一週間を生き延びることができるのだろうか。
窓の外で、生温かい春の夜風が不吉な音を立てて木々を揺らしていた。




