第4話「交差する二つの顔と、放課後の密会」
波乱に満ちた金曜夜の「初・手元配信」から週末が瞬く間に過ぎ去り、気がつけば月曜日の朝を迎えていた。
星降ルナのチャンネル登録者数は、あの夜を境に「爆増」という言葉が相応しい勢いで跳ね上がっていた。
手元配信で披露された結愛の白く華奢な指先の美しさはもちろんのこと、突如乱入した巨大なクモに対するパニック、そしてミュート越しの「有能な義兄による救出劇」など、その一連のハプニングが、切り抜き動画としてSNSで凄まじい勢いで拡散されたのだ。
『清楚で可憐なVTuber』と『裏ではウザいけど実は頼りになるツンデレ義兄』という、まるでライトノベルのような関係性がオタクたちのツボを激しく刺激したらしい。週末だけで登録者数は三万人を突破し、今この瞬間も数字は右肩上がりで伸び続けている。
プロデューサーとしては、これ以上ない最高の結果だ。祝杯をあげてもいいくらいの特大ホームランである。だが、当事者であり、すべての火種を抱え込んでいる僕の胃の腑は、まるで鉛を飲み込んだかのように重く、冷え切っていた。
月曜日の朝、教室の自分の席に座った僕は、周囲から聞こえてくる会話の端々に耳をそばだて、生きた心地のしない時間を過ごしていた。
「おい見たかよ、昨日の星降ルナの切り抜き! あのクモ出た時の悲鳴、マジで助けてあげたくなる可愛さだったよな」
「見た見た! つーか、あの義兄ニキ有能すぎん? 秒で部屋に入ってきて無言で虫退治して去っていくとか、イケメンかよ」
「ルナちゃん、『いつもはウザいけど今日はかっこよく見えた』とか言っててさ、絶対あの義兄、裏ではめちゃくちゃ妹に甘いシスコンだぜ」
斜め前の席で、クラスメイトの男たちがスマホの画面を見せ合いながら盛り上がっている。そのスマホの画面には、間違いなく僕の部屋の隣、結愛の部屋の白いデスクが映し出されていた。
背筋を冷たい汗が伝い落ちる。
まさか自分のクラスで、しかも自分の真ん前で、自分がプロデュースしている義妹のVTuber活動……あまつさえ「自分自身の行動」について熱く語られる日が来るとは思わなかった。
「なあ、天野はどう思う? お前も親の再婚で妹いるんだろ?」
不意に、会話の中心にいたオタク男子、高橋が僕に話を振ってきた。ビクッと肩が跳ねるのを必死に抑え込み、僕は持っていたシャープペンシルをノートの上に置き、極めて自然な、興味のなさそうな表情を作って彼に顔を向けた。
「え? ああ……ごめん、そのVTuberとかあんまり詳しくなくてさ。星降、なんだっけ?」
「星降ルナだよ! 今めっちゃバズってる個人勢! お前も妹いるならわかるだろ、この『普段はツンツンしてる妹が、いざという時に頼れる義兄にデレる』っていう激エツなシチュエーションがよ!」
「いや、現実の妹なんてそんな可愛いもんじゃないって……。うちのやつなんて、顔を合わせれば『視界に入るな』とか『息が臭い』とか、そんな暴言ばっかりだよ」
「うわぁ、リアルだな……。じゃあお前、ルナちゃんの義兄ニキみたいな有能ムーブはできないわけだ。クモとか出たらどうすんの?」
「放置するか、殺虫剤渡して自分でやれって言うかな」
「出たよ天野の塩対応! だからお前はモテないんだよ!」
高橋たちがゲラゲラと笑い合い、話題はすぐに別のゲームの話へと移っていった。
僕は机の下で、冷や汗でビショビショになった両手を強く握りしめた。バレていない。僕があの「有能な義兄ニキ」本人だなんて、誰もこれっぽっちも疑っていない。だが、この不穏な空気は確実に僕の日常を侵食し始めている。
配信の規模が大きくなればなるほど、特定のリスクは跳ね上がる。声、生活音、間取り、ふとした発言。ほんの僅かな綻びから、ネットの特定班は住所や身元を割り出してくる。
もし結愛が星降ルナであることがバレれば、当然、同じ家に住む僕の存在も芋づる式に暴かれる。「星降ルナのウザい義兄」の正体が天野陸であると知れ渡れば、僕の平穏な高校生活は終わりを告げ、毎日が好奇の目とパパラッチに晒される地獄へと変貌するだろう。
それだけじゃない。もし結愛自身に、「Pの正体が、自分が家で毛嫌いしている(しかし服の匂いを嗅ぐほど裏では依存している)義兄の陸である」とバレてしまったら……。想像するだけで吐き気がした。彼女のあの、宝物箱に僕の古いキーホルダーと名札を隠し持つという、深淵のように歪んだ感情。それがどちらの方向に爆発するのか、僕には全く予測がつかないのだ。
午前中の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。
弁当を食べる気にもなれず、僕は重い頭を抱えながら、屋上へ続く階段の踊り場へと向かった。ここは普段、誰も寄り付かない僕だけの避難場所だ。
コンクリートの冷たい壁に背中を預け、制服のポケットからスマホを取り出す。
プロデューサーとしての業務連絡を確認するため、裏アカウントでログインしているDiscordを開いた。そこには、結愛から、数十件にも及ぶ未読メッセージが溜まっていた。
『Pさん! おはようございます!』
『今日の朝も登録者数が増えてて、私、夢みたいです……!』
『これも全部、Pさんが私を見つけてくれて、素敵な手元配信を企画してくれたおかげです!』
『Pさん……今、お仕事中ですか?』
『忙しいのにごめんなさい。でも、どうしてもPさんの声が聞きたくて』
『今日の放課後……夕方くらいに、少しだけお電話でお話しできませんか?』
『Pさんに、どうしても直接伝えたいことがあるんです……』
画面を見つめたまま、僕は小さく息を呑んだ。
直接伝えたいこと……?
嫌な予感がする。今までの彼女のメッセージは、配信の反省や企画の相談、あるいは僕(P)に対する重めの好意の押し売りがほとんどだった。だが、今日の文面には、どこか思い詰めたような、ただならぬ決意の匂いが漂っている。
時刻は午後一時を回ったところだ。放課後といえば午後四時過ぎ──普段なら家に帰ってからパソコンの前に座り、ボイスチェンジャーを使って対応する時間だが、今日は母親が夕方からパートに出るため、家には僕と結愛が二人きりになる可能性が高い。
家の中で結愛がPと通話している最中に、僕が自室でボイスチェンジャーを使って喋れば、壁越しに僕の生声とPの声が重なって聞こえてしまう。それはすなわち「即死」を意味する。
(やるしかない……ここで、片付けるしかない)
僕は周囲に誰もいないことを確認し、スマホにインストールしてある『高性能リアルタイムボイスチェンジャーアプリ』を起動した。これは万が一、外出先でPとして緊急対応しなければならない時のために用意しておいた、僕の命綱だ。
スマホのマイクに有線のイヤホンマイクを接続し、喉の調子を整える。設定を『大人の男の低音』に合わせ、結愛のチャット画面に返信を打ち込んだ。
『ルナ、お疲れ様。今なら少しだけ時間を取れるよ。通話できるかい?』
送信してわずか三秒後。
画面に『着信中』のポップアップが勢いよく飛び出してきた。彼女はスマホを握りしめて待っていたに違いない。
「……もしもし、ルナ。どうしたんだい? そんなに急いで」
息を殺した学校の階段の踊り場で、僕はイヤホンマイクに口を近づけ、最大限に落ち着いたプロデューサーの声を紡ぎ出した。
「あっ……Pさんっ!」
電話越しに聞こえてくる結愛の声は、いつもよりワントーン高く、そして微かに震えていた。
「お仕事中にごめんなさい! でも、どうしても今すぐPさんに言いたくて……」
「構わないよ。君のプロデューサーである以上、君からの連絡はどんな仕事よりも最優先だ」
息を吐くように嘘と甘い言葉を並べる。だが、これが彼女を安心させ、コントロールするための最適解なのだ。
「Pさん……、あのね、私、今回の配信で登録者数がすごく増えて、いろんな人に見てもらえるようになって……本当に、本当に嬉しかったんです」
「僕も嬉しいよ。ルナの魅力が世界に伝わった証拠だからね」
「でも……私の中で、一番大きかったのは、数字が増えたことじゃないんです」
結愛の声が、ふっと熱を帯びた。
「トラブルが起きて、私が一人で泣きそうになってた時……Pさんが、僕がずっとそばにいるからって言ってくれた。あの言葉があったから、私、最後まで配信をやり遂げることができたんです」
「プロデューサーとして当然のことをしたまでだよ」
「ううん、違います。私にとって、Pさんはただのプロデューサーじゃありません」
イヤホンの向こうで、結愛が深く深呼吸をする音が聞こえた。階段の踊り場に吹き込む風がやけに冷たく感じられる。僕の心臓が、警鐘を鳴らすようにドクンドクンと嫌なリズムを刻み始めた。
「Pさん。私……Pさんに、直接お会いして、この感謝を伝えたいんです」
(──来た)
脳内で、最悪のレッドアラートが鳴り響いた。
バーチャルYouTuberにとって、中の人同士、あるいは裏方と直接会うことは、オフコラボや打ち合わせとして珍しいことではない。だが、僕と結愛の間でそれが行われれば、待っているのは感動の対面ではなく、血で血を洗う惨劇だ。
「……直接、会う?」
声が震えないよう、丹田に力を込めて聞き返す。
「はい……っ。私、今までずっとPさんの顔も知らないまま、声と言葉だけで支えてもらってきました。でも、これだけ大きくなった今、Pさんの本当の姿を知りたいんです! Pさんに渡したいものもあるし……」
「渡したいもの?」
「……内緒です。でも、私が一番大切にしてる、私自身の気持ちみたいなものです」
(まさか、あの木彫りの熊のキーホルダーじゃないだろうな……!)
背中に変な汗が噴き出してくる。もし僕がPとしてあの待ち合わせ場所に現れ、結愛がとびきりのおめかしをしてやってきて、そこに現れたのが『家で毛嫌いしているはずのウザい義兄』だったら……。
想像しただけで、致死量のストレスで胃が破裂しそうだ。断らなければならない。絶対に、何がなんでも、自然な形で……。
「ルナ。君の気持ちは、痛いほど伝わってきた。本当に嬉しいよ」
僕はゆっくりと、言葉を選びながら語り始めた。
「でもね、今はまだ、僕たちが会うべきタイミングじゃないんだ」
「え……? どうしてですか……? 私、何か失礼なこと……」
「違う、そうじゃないんだ。ルナ、君は今、ものすごいスピードで階段を駆け上がっている最中だ。この勢いを殺さずに次のステージへ行くためには、君自身が『星降ルナ』という存在に完全に集中する必要がある」
僕はプロデューサーとしてのロジックをフル稼働させ、彼女を諭すように言葉を紡ぐ。
「リアルで会うということは、君に『現実』を強く意識させてしまう。今の君の圧倒的な魅力は、バーチャルとリアルの境界線で揺れ動く、そのミステリアスな危うさにあるんだ。僕が不用意に君の現実に干渉すれば、その魔法が解けてしまうかもしれない」
「Pさん……」
「僕はね、ルナ。君が本当のトップスターになる瞬間を見届けたいんだ。だから約束しよう。君のチャンネル登録者数が十万人を突破して、夢の『3D化』が決まったその日。そのお祝いの席で、必ず君に直接会っておめでとうと言うよ。それまでは、今と同じように一番近くで君の声を聞き続ける。どうかな?」
沈黙が落ちた。階段の踊り場で、僕は息をすることすら忘れてスマホを握りしめていた。
十万人という数字。そして3D化。それは今のペースなら不可能ではないが、少なくとも数ヶ月、長ければ一年以上は時間を稼げる絶妙なハードルだ。長い長い数秒間の後、イヤホンの向こうから、小さく鼻をすする音が聞こえてきた。
「……Pさんって、本当にずるいです」
結愛の声は、泣き笑いのような不思議な感情に包まれていた。
「そんな風に言われたら……私、頑張るしかないじゃないですか。絶対に十万人いって、Pさんに直接『大好きです』って言うんだから……っ」
「……ああ。期待して待っているよ」
「はいっ! 私、今から今日の配信の準備、めちゃくちゃ頑張ります! Pさん、お仕事中に本当にありがとうございました!」
通話が切れるツーツーという音が鳴り響く。僕はスマホを下ろし、そのままコンクリートの床にズルズルと崩れ落ちた。
「……死ぬかと思った……」
とりあえずの時間は稼げた。だが、これは問題の先送りに過ぎない。十万人を突破した時、僕は一体どうすればいいのか。その前に正体がバレるリスクをどうやって回避し続けるのか。
放課後、疲労困憊の身体を引きずって家に帰ると、玄関には結愛のスニーカーが綺麗に揃えられていた。リビングのドアを開けると、ソファに座ってスマホをいじっていた結愛が、チラリとこちらを見た。
「……おっそ。どこほっつき歩いてたのよ、ウザ陸」
いつも通りの、氷のように冷たくトゲのある声音。だが、僕は気づいてしまった。
僕の顔を見た瞬間、彼女の耳の先がほんのりと赤く染まり、スマホを握る指先がキュッと白くなるほど力が入ったことを……。そして、彼女の座っているソファのすぐ横──彼女の手がすぐに届く位置に、僕が昨日洗面所に置いておいたはずの、あの『グレーのパーカー』が、きっちりと畳まれて置かれていることを……。
「……別に。普通に帰ってきただけだよ」
僕は何も見なかったふりをして、足早に自分の部屋へと向かった。背中に突き刺さる結愛の視線が、痛いほど熱い。
ネットでは「P」に対して純真で一途な愛情を向ける星降ルナ。リアルでは義兄に対して暴言を吐きながらも、その匂いや持ち物に異常なまでの執着を見せる天野結愛。
交差する二つの顔。決して交わってはいけない二つの愛情。この歪な綱渡りの果てに一体どんな結末が待っているのか、僕にはまだ知る由もなかった。




