第17話「電子の首輪と崩壊の合図」
ドアノブが、重苦しい金属音を立ててゆっくりと回った。
薄暗い自室のベッドに腰掛けたまま、僕は全身の筋肉を硬直させ、開いていく扉から目を離すことができなかった。隙間から滑り込むように部屋に入ってきた結愛は、幽鬼のように虚ろな足取りだった。裸足のままペタペタと床を踏みしめ、うつむいたまま僕の目の前まで歩み寄ってくる。
「……結愛? どうしたんだ、こんな時間に」
白々しい嘘だと自分でも分かっていた。僕自身がたった数分前、有能Pとして白石みぞれのコメントを固定し、配信中の彼女の精神を意図的に破壊したのだから……。
結愛は僕の言葉には答えず、力なく僕の胸元へと倒れ込んできた。冷え切った彼女の身体を受け止めると、僕のシャツの胸元が急激に温かい水分で濡れていくのがわかった。
「……裏切られた」
結愛の口から消え入りそうな声が漏れた。
「信じてたのに……。私の一番の味方だって言ってくれた人が……ネットで別の女の味方をしたの……。私を見捨ててあっちに行っちゃった……!」
しゃくりあげる結愛の悲鳴に近い嗚咽が静寂の部屋に響く。
結愛は自分がVTuberの星降ルナであることを僕に隠している。だから、「Pさん」や「コメント欄」といった具体的な言葉は出さず、ただ、一番信じていた人に裏切られた絶望だけを必死に訴えかけていた。その相手が目の前にいる僕だとは夢にも思わずに……。
「結愛、落ち着いて……」
「落ち着けるわけない!!」
結愛は僕の胸ぐらを強く掴み、赤く腫らした狂気の瞳で僕を睨みつけた。
「その人も私から離れていく! どうして!? 私がこんなに愛してるのに、なんでみんな泥棒猫の方に行っちゃうの!? ねえ、陸もそうなの!? 陸も、あの香水の女のところに行っちゃうの!?」
「行かないよ。僕は結愛の兄だからどこにも行かないよ」
僕は半狂乱になって暴れる結愛を、骨が軋むほどの力で抱きしめた。皮肉にも、結愛を絶望の淵に突き落とした元凶は、今彼女を抱きしめている僕自身なのだ。僕が彼女を壊し、僕が何も知らないふりをして彼女を慰めている。このグロテスクな二重劇の罪悪感に、胃の腑から吐き気が込み上げてくる。
「……ほんと? ほんとに陸は私を見捨てない?」
「ああ。約束する」
「……じゃあ、もうネットのあの人はいらない」
結愛の声が、ふっと不気味なほど冷たく平坦なものに変わった。
「私を裏切る人なんてもういらない……。私には陸だけがいればいい。だから陸、これからはずっと私のそばにいて! 私の目に見えるところにいて! GPSが一ミリでも不自然な動きをしたら、絶対に許さないから」
彼女は僕の胸に顔を埋め、タコのように手足を僕の身体に絡みつかせた。それは依存という名の完全な呪いだった。ネットの世界の居場所を失ったと思い込んだ結愛は、残された現実の世界の居場所(陸)に対する執着を、致死量のレベルまで引き上げてしまったのだ。
翌日の学校──
僕のスマートフォンは、朝からポケットの中で不気味な振動を繰り返し続けていた。
『今、誰と話してるの?』『トイレ長くない?』『現在地、教室から動いてないよね?』
GPSトラッキングアプリの監視に加え、数分おきに送られてくる結愛からのメッセージ。僕は見えない電子の首輪をきつく締め上げられながら、泥のような疲労感を引きずって授業を受けていた。
昨夜の星降ルナの突然の配信切断は、案の定ネット上で大きな騒ぎになっていた。『ルナちゃん発狂』『有能Pと白雪みぞれの匂わせに嫉妬か』など、面白半分のまとめ記事がすでにいくつも作られている。
昼休み──逃げるように屋上へと向かおうとした僕の前に、またしてもあの女が立ち塞がった。
「昨日の配信、最高傑作だったね」
誰もいない階段の踊り場で、白石みぞれは壁に背を預けながら、心底楽しそうにクスクスと笑っていた。
「自分の手で、妹さんの精神をズタズタに引き裂く気分はどう? 悲鳴が聞こえた時、私、背筋がゾクゾクしちゃった」
「……白石のせいでルナの配信は当分休止だ。これで満足か?」
「ふふっ。有能Pくんが裏で懸命にご機嫌取りをすれば、すぐに機嫌を直すんじゃない?」
「できるわけないだろ! 結愛は今、Pを完全に敵視してるんだ。これ以上刺激したら、あいつは本当に壊れる!」
僕が声を荒げて詰め寄ろうとした、その時だった。
僕のズボンのポケットで、スマートフォンがブーブーと連続して振動した。結愛からの着信だった。僕が舌打ちをして着信を切る動作を見た白石は、ふと僕のスマホの画面に目を留め、メガネの奥の瞳を妖しく細めた。
「……ねえ。さっきから思ってたんだけど、あなたのスマホ、ずいぶんと頻繁に鳴るわね」
白石はスッと手を伸ばし、僕の手から強引にスマートフォンを奪い取った。
「あっ、おい!」
「ロック画面くらいなら見れるわよね……あら?」
白石の赤い唇が、弧を描くように吊り上がった。ロック画面には、結愛からの異常な数のメッセージ通知と、バックグラウンドで起動し続けている位置情報共有アプリの現在地追跡マークが表示されていた。
「あはははっ! 何これ、GPS!? 妹さん、ついに電子の首輪をあなたに付けたのね! 傑作じゃない!」
「返せ!!」
「あなたが私から貰った首輪をなくしたから、妹さんが代わりに自分の首輪を付けてくれたってわけね。ふふっ、本当にヤンデレの素質があるわ」
白石は画面をじっと見つめたまま、何か恐ろしい思いつきをしたように、目を爛々と輝かせた。
「……ねえ、天野くん。今日の放課後、私と駅前のカラオケに行きましょ」
「はあ? ふざけるなよ! 真っ直ぐ帰らないと結愛が……」
「そうよ。君が寄り道をして、しかもその現在地のピンが、カラオケボックスなんていう密室で二時間も停滞し続けたら……それを見ている妹さんは、家でどんな顔をするかしら?」
全身の血が凍りついた。白石は、結愛がGPSで僕を監視していることを逆手に取り、結愛の精神をさらに拷問にかける最悪のゲームを思いついたのだ。
「やめろ……それだけは絶対に駄目だ! あいつは今、僕が他の女と会ってるんじゃないかって、極限まで神経を尖らせてるんだぞ!」
「だから面白いんじゃない。安心しなさい、私がスマホを取り上げて、妹さんからのメッセージは全部無視してあげるわ」
「悪魔かお前は……」
「断れば、例の『推測』を掲示板に流すわよ。さあ、どうする?」
選択肢など最初から存在しなかった。
放課後──
僕は白石みぞれの横を歩き、駅前の繁華街へと向かっていた。僕のスマートフォンは白石の手に握られており、数秒おきに着信とメッセージのバイブレーションを繰り返している。それはまるで、結愛の悲鳴そのもののように感じられた。
「すごいわねこれ。『どこにいるの?』『学校じゃないよね?』『誰かと一緒なの?』……画面が通知で埋め尽くされてるわ」
白石は画面を見下ろしながら、心底愉快そうに笑い声を上げている。
駅前のカラオケボックスに入り、薄暗い個室のソファに腰を下ろした。防音扉が閉まった瞬間、僕は密室に閉じ込められた完全な絶望を味わった。白石はテーブルの上に僕のスマホを置き、現在地のピンがこのカラオケに固定されたことを確認して微笑んだ。
「さあ、ショーの始まりよ。現実の兄が、どこかの泥棒猫と一緒にカラオケの密室にいる。それを地図上でリアルタイムに見せつけられている妹さんは、今頃お家でどうしてるかしらね?」
テーブルの上で、スマートフォンが狂ったように震え続けている。
『どうしてカラオケにいるの?』
『男友達? 本当に男友達?』
『電話に出て。ねえ、電話に出てよ!!』
通知のテキストが、徐々に支離滅裂なものへと変わっていく。僕は頭を抱え、ただその振動音が止まるのを祈るしかなかった。しかし、白石は無情にも僕のスマホの電源ボタンを長押しし、強制的に電源をシャットダウンさせた。ブツッという音と共に画面が真っ暗になる。
「……な、何してんだよ!!」
「アプリの電源を切るか、スマホを置いて出かけたら『何をするかわからない』って言ってたんでしょ? 試してみましょうよ。彼女の愛情の深さを」
GPSのピンの更新が途絶えた。それは、結愛の目から僕の存在が完全にロストしたことを意味する。静まり返ったカラオケの個室で、白石みぞれだけが優雅に足を組み、マイクを手にとって楽しげに歌の予約を入れ始めた。
僕は知らなかった。スマートフォンの電源が切られ、位置情報の共有が途絶えたその瞬間、自宅のリビングで、完全に理性を焼き切った結愛が裸足のまま玄関を飛び出し、鬼気迫る形相で駅前へと走り出していたことを。
二つの世界で居場所を奪われ、狂気に染まりきったヤンデレの妹が、ついに現実の泥棒猫を狩るために動き出したことを……。




