第16話「見えない首輪と二重の裏切り」
夕暮れの玄関は、結愛の悲痛な絶叫とすすり泣く声に支配されていた。
僕の胸ポケットから奪い取った銀色のブックマーカーを握りしめ、結愛は床にへたり込んだまま、僕のズボンの裾を死に物狂いで掴んでいた。
「なんで……なんで私から奪うの。陸も、Pさんも……私だけのものなのに」
彼女の焦点の合わない瞳からは、止めどなく大粒の涙が溢れ落ちている。現実の兄をマーキングした「学校の泥棒猫」と、ネットのPに印をつけたと自慢する「ネットの泥棒猫」。二つの脅威が偶然にも同時に襲いかかってきたことで、結愛の精神は完全に決壊していた。
僕は結愛の震える背中に手を回し、必死に言葉を紡ぐしかなかった。
「結愛、聞いて。僕は誰のものにもならない。そのブックマーカーは本当にただの落とし物なんだ。誰かに貰ったわけじゃない。Pさんだって、結愛のことを一番に考えてるはずだよ」
僕が懸命になだめても、結愛は首を激しく横に振った。
「嘘! 陸は私に内緒で、知らない女の匂いをつけて帰ってきたじゃない! もう誰も信じられない……。ねえ、証明してよ。私のこと見捨てないって証明して!」
結愛は赤く腫れ上がった目で僕を見上げると、自分のポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で何かを操作し始めた。そして、画面を僕の目の前に突きつける。
表示されていたのは、家族や恋人間でスマートフォンの現在地を24時間共有し合う、GPSアプリのインストール画面だった。
「今すぐこれ入れて。陸がどこにいるか、誰といるか、私がいつでも確認できるようにして。学校にいる時も、寄り道してないかずっと私が見張ってるから」
「結愛……それはいくらなんでも」
「入れて!! じゃないと私、おかしくなっちゃう! 陸がどっかに行っちゃうくらいなら、私ここで死ぬから!!」
結愛が狂乱状態のまま玄関の靴箱に頭を打ち付けようとしたため、僕は慌てて彼女を取り押さえた。
「わかった! わかったから! 今すぐ入れるから、やめてくれ!」
僕は自分のスマホを取り出し、言われるがままにアプリをインストールし、結愛のアカウントと同期させた。結愛のスマホ画面の地図上に、僕の現在地を示す青いピンがマッピングされる。それを見て結愛はふにゃりと、まるで憑き物が落ちたように不気味なほど穏やかな笑顔を浮かべた。
「……えへへ、これで陸はずっと私と一緒だね。もしこのアプリの電源を切ったり、わざとスマホを置いて出かけたりしたら……私、何するか分からないからね?」
底知れぬ漆黒の瞳で見つめられ、僕は首の皮一枚で繋がったような冷たい恐怖を抱きながら、ただ頷くことしかできなかった。
翌日の学校。僕のスマートフォンは、休み時間になるたびに結愛からのメッセージで震え続けていた。
『今、教室にいるよね?』『移動教室? 誰と一緒に歩いてるの?』『お昼は一人で食べてるよね?』
GPSの監視と絶え間ないメッセージ攻撃。それは文字通り、見えない電子の鎖だった。
そして、その見えない鎖に縛られながら精神をすり減らしている僕に、もう一つの地獄が容赦なく襲いかかる。
昼休み、人気のない渡り廊下を歩いていた僕の前に、白石みぞれが立ち塞がった。彼女の視線は、僕のブレザーの胸元──銀色のブックマーカーが消えた空のポケットへと向けられていた。
「あら? 私がつけた首輪、どこにやったのかしら?」
メガネの奥の瞳を冷たく細め、白石は静かに問い詰めてきた。
「……ごめん。家に帰ったら、妹に見つかって……奪われた」
僕が視線を逸らしながら正直に答えると、白石は一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑い始めた。
「あはははっ! 傑作ね! さすがはルナちゃん、ヤンデレの素質は本物じゃない! 泥棒猫の匂いに敏感なこと!」
「笑い事じゃない! あいつは今、完全にパニックになってるんだ! これ以上、面白半分で刺激するのはやめてくれ!」
僕が声を荒げると、白石はスッと笑いを止め、氷のように冷酷な目を向けた。
「誰がやめていいと言ったの? 言ったはずよ、私はあなたのご主人様だって」
白石は僕の制服のネクタイを強引に引き寄せ、至近距離で甘い吐息を吹きかけた。
「妹さんに首輪を外されたからって私が許すわけないでしょ? 悪い子にはちゃんとペナルティを与えなきゃね」
「……何をしろって言うんだ」
「今夜のルナちゃんの配信で、白雪みぞれのコメントを一番上にピン留めしなさい」
「なっ……!?」
絶句する僕を見て、白石はサディスティックな笑みを深めた。
「ただでさえ妹さんは今、ネットの泥棒猫にも過敏になってるんでしょ? そこで彼女が最も信頼するPくんが、私を特別扱いしたら……どうなるかしらね」
「そんなことできるわけないだろ! 結愛がどれだけ傷つくか……!」
「断るなら、今ここで君とツーショットの自撮りを撮って、ルナちゃんの公式アカウント宛てにDMで送ってもいいのよ。もちろん、学校の裏掲示板にもね。あなたの妹さんは、二つの意味で壊れちゃうんじゃない?」
完全に退路を断たれた。白石は僕が絶対に逆らえないことを知った上で、結愛の精神をサンドバッグにして遊んでいるのだ。
そして迎えた二十時。星降ルナの雑談配信が始まった。僕は自室のモニターの前で、キリキリする胃の痛みに耐えながらコメント欄を監視していた。
「こんばんルナ……。みんな、今日も来てくれてありがとう……」
画面越しに聞こえてくるルナの声は、いつもより明らかにトーンが低く、湿り気を帯びていた。アバターの笑顔とは裏腹に、彼女の言葉の端々には隠しきれない苛立ちと疑心暗鬼が滲んでいる。
「ルナね、今日はすっごく嫌なことがあったの。ルナの大切なものを、勝手に自分のものだって言い張る悪い泥棒猫がいてね……。みんななら、そういう泥棒猫にどうやってお仕置きする……?」
リスナーたちは「ヤンデレモード最高!」「ルナちゃん怖いよw」と盛り上がっているが、僕だけが、彼女の言葉が一片の狂いもない本心(殺意)であることを知っている。
配信が中盤に差し掛かった時、コメント欄の流速が不自然に跳ね上がった。僕の心臓がドクンと嫌な音を立てる。
「あ、みぞれ先輩……こ、こんばんは……」
ルナの声が微かに震えた。コメント欄に白雪みぞれが現れたのだ。
『白雪みぞれ:ルナちゃん、こんばんわぁ! Pくん、今日も私の言うことちゃんと聞いてくれてる?』
挑発的なそのコメントにリスナーが沸き立つ。しかし僕の視線は別の場所に釘付けになっていた。手元のスマートフォンが震え、白石みぞれからDiscordのメッセージが届く。
『今よ。あのコメントをピン留めしなさい。5秒以内ね』
「くそっ……!」
僕は冷や汗で滑る手でマウスを握りしめ、震える指で操作を行った。画面の上部、一番目立つ場所に、白雪みぞれの「Pくん、今日も私の言うことちゃんと聞いてくれてる?」というコメントが青い帯となって固定された。
それは、モデレーターである有能Pが、白雪みぞれの言葉を公式に認め、彼女を特別扱いしたという、結愛に対する最悪の公開裏切り行為だった。
ルナの言葉が完全に途切れた。数秒の沈黙。リスナーのコメントだけが無邪気に流れ続ける中、配信の音声に、マイクが拾ってしまった「ギリッ」という、結愛が奥歯を強く噛み締める生々しい音が乗った。
「……Pさん、なんでみぞれ先輩のコメントを固定してるの……?」
声のトーンが限界まで張り詰めた糸のように震えていた。
「ねえ、Pさん……。Pさんはルナの専属だよね? ルナだけのPさんだよね? なのにどうして……どうして泥棒猫の言うことを聞いてるの……?」
画面上で笑うルナのアバターとは逆に、結愛の精神は今ここに完全崩壊した。
現実では兄が泥棒猫にマーキングされ、ネットではPが泥棒猫に服従の姿勢を見せた。二つの世界で、彼女の絶対的な拠り所が同時にへし折られたのだ。
「……っ、ふざけないでよ!!!」
突然、配信に結愛の素の絶叫が響き渡った。
「みんな私から奪っていく! 泥棒! 泥棒猫!! 絶対に許さない!!!」
ガシャンッと、マイクスタンドが倒れるような激しい物音が響き、次の瞬間、配信の画面がプツンと真っ暗に暗転した。結愛が自らパソコンの電源を強制的に落としたのだ。
静寂に包まれた自室で僕は硬直していた。モニターの向こう側で何が起きたのかを理解する前に、壁一枚隔てた隣の部屋から、バタンと乱暴にドアが開く音が聞こえた。
そして、ペタペタと裸足で廊下を歩く足音が、僕の部屋のドアの前でピタリと止まる……。
「陸」
ドア越しに聞こえたのは、地獄の底から響くような一切の感情が欠落した冷たい声だった。逃げ場のない密室で、狂気の連鎖がついに僕の部屋の扉を叩こうとしていた。




