第15話「深夜の密会通話と扉の向こうの疑心暗鬼」
深夜一時過ぎ。暗闇の中で、僕は全身にまとわりつく重苦しい熱と格闘していた。
隣で寝ている結愛の細い腕が、僕の胴体を万力のように締め上げている。タコのように絡みついた手足を少しでも引き剥がそうとすると、彼女は「……ん、だめ……どこにもいかないで……」と、寝言とも呪詛ともつかないうめき声を漏らし、さらに抱擁の力を強めてくる。
額に浮かんだ冷や汗をシーツで拭いながら、僕は数ミリ単位で自分の身体をずらし、息を殺して結愛の拘束から抜け出す算段を立てていた。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、その音が結愛を起こしてしまうのではないかと錯覚するほどだった。十五分ほどかけてようやくベッドから抜け出すことに成功した時、僕のパジャマはすでに嫌な汗でぐっしょりと濡れていた。
静まり返った暗い廊下を、床板が鳴らないように忍び足で通り抜ける。真っ暗な空間で、冷蔵庫のモーター音だけが微かに響いていた。
洗面所に滑り込み、音を立てないようにゆっくりと鍵を回す。カチャリという小さな金属音にさえ肩を震わせながら、僕は暗闇の中でスマートフォンの画面を点灯させた。目に刺さるようなブルーライトの中、Discordの通話ボタンをタップし、耳に押し当てる。数回の呼び出し音の後、通話は繋がった。
「……何の用だよ、白石。明日の配信で何を言うつもりだ」
僕は音漏れを極限まで警戒し、声を地の底に潜めるようにして冷たく言い放った。自分から、有能Pとしての具体的な情報を口にするわけにはいかない。だが、彼女の「配信での発言を保証しない」という脅しを無視すれば、結愛の築き上げてきた『星降ルナ』という居場所が一瞬で灰にされる危険性があった。
スピーカー越しに耳元へ届いた白石みぞれの声は、夜の闇に溶け込むように甘く、そして決定的な優位に立つ者の愉悦に満ちていた。
「ふふっ、本当に掛けてきた。偉いわね、有能Pくん。そんなに明日の配信のことが心配? それとも、自分の可愛い妹の精神状態が心配なのかしら?」
「ふざけるな! 昼間の図書室といい、お前が言っているのは全部ただの言いがかりだ! ログイン情報も、録音データも、決定的な証拠なんて何一つ持ってないだろ!」
暗闇の洗面所で鏡を見つめながら僕は必死に牙を剥いた。証拠がない。それだけが、僕がギリギリでしがみついている細い糸だった。しかし、白石は満足そうにクスリと喉の奥で笑った。
「そうよ、決定的な証拠なんて何一つないわ。あなたと有能Pのアカウントを完全に紐づける物的証拠なんて、私の手元には存在しない。……でもね天野くん、私に確証がないから何だというの?」
「なに……?」
「裁判でも起こすつもりかしら? ネットの世界や、多感な高校生の世界において……完璧な証拠なんて本当に必要だと思う?」
白石の声から嘲笑が消え、底知れない冷徹さと残酷さが顔を出した。それは、人間の悪意のメカニズムを知り尽くした捕食者の声だった。
「もし私が、SNSの捨てアカウントや学校の裏掲示板に、星降ルナの裏方にいる有能Pの正体は、同じ高校に通う天野陸であるって、それらしい状況証拠をいくつか添えて書き込んだらどうなるかしら? 図書室でも話したように、ルナちゃんの配信スケジュールと君の帰宅時間の一致。君が過去に文化祭で音響や配信周りを完璧に仕切っていたという事実。それらを繋ぎ合わせるだけで、ネットの特定班は嬉々として動き出すわ。彼らにとっては真実かどうかなんて関係ないの。燃やして遊べるオモチャがあればそれでいいのよ」
息が止まった。白石の言葉は恐ろしいほどに的を射ていた。
「学校でも面白おかしく噂が広まるわね。あいつ、妹の配信の裏方やって、ネットでイキってるらしいぜって。そして何より……あんなに繊細なルナちゃんの精神は、そのノイズと疑心暗鬼に耐えられるかしら? 配信のコメント欄が荒れ、現実の学校でも奇異の目で見られる。君が必死に守ってきた彼女の『箱庭』は、私が指先でちょっと火種を落とすだけで、簡単に燃え尽きるのよ」
「く……っ!!」
鈍器で頭を殴られ、胃の腑を直接鷲掴みにされたような強烈な吐き気が込み上げてきた。
白石の狙いは、僕を論理的に論破することでも、決定的な証拠を突きつけることでもなかった。「正体が暴かれるかもしれない噂を撒き散らされる」というリスクそのものを盾にして、僕の最弱点である「結愛の精神の防衛」を完全に人質に取ることだったのだ。
証拠の有無など関係ない。彼女が口を開き、火種を投下するだけで、結愛の日常とVTuberとしての活動は一瞬にして崩壊する。僕には、彼女のハラハラするような悪意の賭けに屈する選択肢しか残されていないのだ。
「理解できたかしら? 私は確証なんてなくても、あなたをいつでも地獄に突き落とせるのよ。だから、これからは大人しく私のプロデュースに従いなさい。まずは明日の放課後、いつもの──」
その時、ガチャリと洗面所のドアノブが、はっきりとした金属音を立てて回った。
「……陸? そこで誰かと話してるの?」
ドア越しに響いたのは、一切の感情を排した結愛の低く平坦な声だった。全身の血が一瞬で凍りつき、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ねた。僕は反射的にスマホの通話をミュートにし、蛇口を全開にして水の音を立てた。
「な、なんでもない! ちょっとお腹が痛くて……独り言だよ!」
自分の声が信じられないほど上ずっているのがわかった。ドアの向こうで気配がしばらく留まり、凍りつくような数秒間が流れる。やがて、スリッパの足音がゆっくりと遠ざかっていった。
僕はその場に力なくへたり込み、詰めていた息を荒く吐き出した。震える指でミュートを解除すると、スピーカーからは「ふふっ、間一髪だったわね。妹さん、ずいぶんと耳が早いのね」という白石の愉悦に満ちた声が聞こえてきた。
翌日の学校。僕にとって、それは針のむしろに座らされているような一日だった。
朝のホームルームから夕方のチャイムが鳴るまで、斜め前の席に座る白石みぞれは、僕の方を一度も振り向かなかった。しかし、彼女が淡々と授業を受け、ノートにペンを走らせるその後ろ姿を見ているだけで、僕の精神は確実に削られていった。彼女は何も言わない。だからこそ、いつでも僕の日常を破壊できるという圧倒的な支配の力を誇示しているようだった。
放課後。白石に指定された通り、僕は人目のつかない体育館の裏手に立っていた。夕日が校舎の影を長く伸ばし、ひんやりとした風が吹き抜ける中、ヒールのあるローファーの音を響かせて彼女がやってきた。
「よく来ました。従順な犬は嫌いじゃないわ」
白石はメガネの奥の瞳を妖しく細めながら、一切の躊躇なく僕のパーソナルスペースへと踏み込んできた。昨日、図書室で嗅いだのと同じ、甘く毒々しい香水の匂いが僕の鼻腔を侵食する。
彼女はブレザーのポケットから何かを取り出すと、僕の胸元へとスッと手を伸ばした。思わず身構えて後ずさりそうになる僕のネクタイを強引に掴み、彼女は僕のブレザーの胸ポケットに、キラリと光る小さな金属を挟み込んだ。
「……な、なんだよこれ」
見下ろすと、それは銀色の雪の結晶を形どった金属製のブックマーカーだった。細工が細かく、どう見ても女子が使うような可愛らしくて目立つデザインだ。
「私が君のご主人様だっていう証拠よ。今日からそれを、学校にいる間も、家に帰ってからも、絶対に肌身離さず持っていなさい。もし私が確認して外れていたら……昨日の推測をネットに流すわ」
白石は僕の胸ポケットをポンポンと優しく叩き、至近距離で甘い吐息を吹きかけた。
「勘違いしないでね。私は君と恋愛ごっこがしたいわけじゃないの。ただ、プライドの高い有能P様が、私に首輪をつけられて怯え、必死に手足をバタつかせる姿を見るのが、たまらなく愛おしいだけよ」
サディスティックな欲望を隠そうともせず、彼女は高らかに笑い声を上げ、そのまま振り返ることなく体育館の裏手から去っていった。
胸ポケットに取り付けられた銀色の雪の結晶。それは物理的な重さなどほとんどないはずなのに、僕の心臓に直接鉛の鎖を繋がれたかのような、絶望的な重圧を放っていた。外せば結愛が壊れる。しかし、こんなものをつけたまま家に帰れば、結愛に何と追及されるかわからない。どちらに転んでも地獄しか待っていない二択を突きつけられ、僕はただ重い足取りで家路につくことしかできなかった。
──「おかえり!」
ピンク色のフリルがついたエプロン姿の結愛が、いつものような明るく愛らしい笑顔で出迎えてくれた。手にはお玉を握っており、キッチンからは夕食のシチューの温かい匂いが漂ってきている。
「あ、ああ……ただいま」
僕が曖昧な笑みを浮かべて、靴を脱ごうとしたその瞬間だった。
結愛の笑顔が、まるで再生中のビデオが突然フリーズしたかのようにピタリと止まった。彼女の視線が釘付けになっているのは、僕の胸ポケットでこれ見よがしに銀色に輝く雪の結晶のブックマーカーだった。
「陸……それ、なに?」
一瞬にして玄関の空気が重く澱んだ。シチューの温かい匂いさえも、急速に冷え切って腐敗していくような錯覚に陥る。
「あ、いや……これは、その、学校の図書室で拾って……明日、落とし物箱に入れようかと思って……」
「ウソ」
結愛が一歩、僕に近づく。その瞳からは完全に光が消え、漆黒の深淵だけが覗いていた。足元から這い上がってくるような彼女の低い声に、僕は思わず息を呑んだ。
「女子が使うような、そんな綺麗なブックマーカー。どうして陸の胸ポケットに大事そうに入ってるの? 拾っただけならカバンの中に入れるはずでしょ。昨日の香水の匂いといい、ねえ、誰なの?」
「本当に拾っただけなんだって! 誤解だよ!」
「誰に貰ったの!? 私以外の誰が、陸にそんなもの触らせたの!!」
結愛が金切り声を上げ、僕の胸元からブックマーカーをひったくるように奪い取った。彼女の細い指が僕の胸ぐらを強く掴み、爪が生地越しに肌に食い込む。
彼女の脳内では、現実の兄をたぶらかそうとする泥棒猫(白石)への憎悪が、限界を超えて狂おしいほどに膨れ上がっていた。私だけのお兄ちゃんを、どこの馬の骨ともわからない女がマーキングしている。その事実が、結愛の精神のストッパーを完全に破壊しようとしていた。
そして、最悪のタイミングは常に、神の悪意のように計算されて訪れる。
結愛のエプロンのポケットの中で、彼女のスマートフォンが短く震えた。結愛が荒い息を吐きながら、無意識にポケットからスマホを取り出し、画面をタップする。
通知を表示させた結愛の目が、これ以上ないほどに見開かれた。
そこには、VTuber・白雪みぞれの公式アカウントからの、数分前に投稿されたばかりの最新のツイートが表示されていた。
『白雪みぞれ:今日は秘密の男の子に、私のお気に入りの印をつけちゃった♪ これで彼は完全に私・の・も・の』
「……あ」
結愛の喉の奥から、ひゅっと空気が漏れるような、壊れた笛のような音が鳴った。
結愛の視線が、自分の右手に握りしめた「銀の雪の結晶」と、左手のスマホ画面に表示された白雪みぞれの投稿の間を激しく、何度も何度も往復する。
結愛は、現実の同級生である白石みぞれと、ネットの先輩である白雪みぞれが同一人物であることにはまだ気付いていない。しかし、彼女の壊れかけた精神の中で、「現実世界で兄に忍び寄る女」が残した痕跡と、「ネットでPを奪おうとする女」が誇示した勝利宣言が、完全に最悪の形でリンクし、凄まじい化学反応を起こしたのだ。
現実の兄とネットのP。結愛が依存し、すがりつき、命を懸けて繋ぎ止めている二つの世界のすべてが、得体の知れない泥棒猫たちによって同時に奪われようとしている。
「許さない……許さない許さない許さない!!!」
結愛は銀色のブックマーカーを、手のひらが切れて血が滲むのではないかと思うほど強く握りしめた。ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、黒く濁りきった狂気の瞳で僕を睨みつける。
「陸は私だけのものなのに……! どうしてみんな、私から全部奪おうとするの!? Pさんも陸も、どうして私を一人にしようとするの!!」
「結愛、落ち着け! 違うんだ、僕はどこにも行かない!」
「嘘つき! またあの香水の匂いをつけて帰ってくるんでしょ! 私、もう陸を一人で学校になんて行かせたくない……! ずっと私の目の届くところに、この家に閉じ込めておきたい……!」
完全に理性を失い、壊れていく妹の絶叫が、夕暮れの薄暗い玄関に響き渡る。
白石みぞれは、僕を法的に追い詰める証拠など何一つ持っていなかった。ただ、僕の恐怖心を煽り、ハラハラするような心理実験の小道具として「雪の結晶」を渡しただけだ。しかしその小さな金属片が、結果として結愛の狂気を、決定的で後戻りのできない段階へと押し進めてしまったのだ。
胸ポケットから奪われた服従の証しと、完全に狂気に囚われ、泣き叫びながら僕の身体にしがみついてくる妹の体温。
僕は、白石みぞれの悪意という名の檻と、天野結愛の愛情という名の檻という逃げ場のない空間に完全に閉じ込められたまま、ただ冷や汗を流して立ち尽くすことしか出来なかった。
窓の外ではカラスの鳴き声が不吉に響いていた。




