第14話「裏切りの香水と深夜の脅迫状」
逃げるように学校を後にし、這うような足取りで自宅の玄関ドアを開けた時、僕の全身はすでに不快な冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
図書室での白石みぞれとの対峙。彼女は確たる証拠もないままカマをかけ、僕の致命的な動揺を引き出すことで、「有能P=天野陸」であり、「星降ルナ=天野結愛」であるという真実を完璧に暴き出した。僕は完全に彼女の掌の上で踊らされたのだ。
「……ただいま」
薄暗い廊下に向けて絞り出すように声をかけると、パタパタと軽い足音が近づいてきた。
「おかえり、陸。……遅かったね?」
出迎えた結愛は、完璧な妹の笑顔を浮かべていた。しかしその瞳には一切の光が宿っておらず、ガラス玉のように冷たい無機質な色を湛えている。
「ああ、ごめん。委員会の仕事が長引いて……」
僕が靴を脱ぎながら視線を逸らして答えると、結愛はスッと僕の胸元に顔を近づけてきた。そして子犬のようにスンスンと鼻を鳴らす。
「……あれ?」
結愛の動きが、ピタリと止まった。
「陸、なんか変な匂いする……」
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「変な匂いって……汗臭かったか? ずっと図書室で資料整理してて──」
「違う」
結愛の声が一段階低くなった。彼女の白い手が、僕の制服のネクタイをゆっくりと掴む。それはつい数十分前、白石みぞれが挑発するように指でなぞったのと同じ場所だった。
「甘くて、ちょっとツンとする匂い……女の人の香水の匂いがする」
全身の血の気が一瞬にして引いていくのがわかった。
図書室の書架で白石に本棚へと追い詰められた時、彼女は僕の耳元に唇が触れるほど顔を近づけてきた。あの時、彼女が纏っていた甘く毒々しい香水の香りが、僕の制服に微かに移ってしまっていたのだ。
「き、気のせいだよ。委員会には男子しかいなかったし……あ、あれだ、図書室の芳香剤か、すれ違った先生の匂いが移ったのかもしれない」
僕は引きつった顔で必死に言葉を紡いだ。声が震えないようにするだけで精一杯だった。
結愛はじっと僕の目を覗き込んでいたが、やがてふにゃりといつもの愛らしい笑顔に戻り、ネクタイから手を離した。
「……そっか! 先生の匂いかぁ。びっくりしちゃった。陸が私に嘘ついて他の女の人と会ってたのかと思っちゃった」
「そ、そんなわけないだろ」
「うん、信じてる。だって陸は、私だけの優しいお兄ちゃんだもんね。ほら、早くお風呂入ってきなよ。その嫌な匂いを全部洗い流してきて」
笑顔のまま言い放たれたその言葉には、絶対に逆らえない絶対的命令の響きがあった。僕は逃げるように脱衣所へと向かいながら、自分が首の皮一枚で繋がっているだけの薄氷の上に立っていることを痛感していた。
二十時。星降ルナの定期雑談配信がスタートした。
僕は自室のパソコンの前に座り、別アカウントで配信のモデレーターを務めながら、音声バランスやコメント欄の監視を行っていた。結愛は自分の部屋で、バーチャルアイドル『星降ルナ』として明るく元気な声を届けている。
「こんばんルナ〜! みんな、今日も一日お疲れ様! ルナは今日ね、大好きなオムライスを食べたから元気いっぱいだよ〜!」
画面の中のルナは、夕方の玄関での冷酷な表情が嘘のように、愛らしくリスナーに語りかけている。しかし、僕の胃の奥の鈍痛は消えることはなかった。
午後、図書室で別れ際に白石が残した言葉が、呪いのように頭の中でリフレインしていた。
『今夜のルナちゃんの配信、私もこっそり見に行こうかな』
──そして、その予感は配信開始から二十分が経過した頃、最悪の形で現実のものとなった。コメント欄を流れる大量のテキストの中に、ひときわ目立つ赤いスパチャが飛んだ。
[白雪みぞれ:ルナちゃん、こんばんわぁ。今日もすっごく可愛いね! 裏で支えてくれてる有能Pくんもお疲れ様です]
「っ……!」
僕は思わずマウスを握る手に力を込めた。同箱の先輩VTuberである白雪みぞれからの突然のスパチャ投下。リスナーたちは「みぞれ先輩だ!」「てぇてぇ!」と一気に沸き立った。しかし、僕と結愛にとって、それは純度百パーセントの悪意に満ちた爆弾だった。
「あ……み、みぞれ先輩! こ、こんばんルナ! スパチャありがとうございますっ」
ルナの声がほんのわずかに上ずった。表面上は先輩への感謝を述べているが、現実の結愛がどれほど顔を歪め、爪を立てているか、僕には手に取るようにわかった。
[白雪みぞれ:ルナちゃん聞いてー。実は今日ね、有能Pくんと裏で二人きりの「秘密のお話」をしちゃった。ルナちゃんには内緒のお・は・な・し]
「っ……!!」
僕は思わずマウスを握る手に力を込めた。
同箱の先輩VTuberである白雪みぞれからの突然のスパチャ投下。リスナーたちは『みぞれ先輩だ!』『Pさんと秘密のお話!?』『てぇてぇ!』と一気に沸き立った。
しかし僕にとって、これは純度百パーセントの悪意に満ちた脅迫状だった。『秘密のお話』それは間違いなく、今日の放課後、図書室という密室で僕が彼女に正体を暴かれたあの出来事を指している。白石みぞれは、僕がPであることを盾に取り、結愛の配信という公の場で、僕と彼女の間にしか分からない秘密の共有を見せつけてきたのだ。
ルナの言葉がピタリと止まった。
画面の中のアバターは、デフォルトの笑顔を浮かべたまま瞬きをしているが、音声は完全な無音。数秒の沈黙が永遠のように長く感じられた。
「……えっ?」
マイクに乗るか乗らないかの微かな声。リスナーは「ルナちゃん固まったw」「嫉妬してるかわいい」と面白がっている。だが、僕には手に取るようにわかった。壁の向こう側で、結愛がどれほど顔を歪め、怒りで爪を立てているかが……。
「Pさんと……ひみつの、お話……? ふ、ふふっ。みぞれ先輩、ダメですよぉ。Pさんは私の専属なんですから。私に隠れて裏でコソコソ仲良くするなんて……ルナ、ちょっと怒っちゃいますよぉ?」
それはリスナーに向けた『ヤンデレキャラのプロレス』という体裁をとっていた。コメント欄も「ヤンデレ発動キター!」と大盛り上がりだ。
だが、その言葉に込められた感情は、本物の殺意に近い独占欲だった。夕方には「現実の兄」から得体の知れない女の香水の匂いがし、今度は「ネットのP」が別の女と秘密の関係を持っていると暴露されたのだ。
結愛は、現実の泥棒猫(白石)と、ネットの泥棒猫(白雪)が同一人物であることには全く気付いていない。ただ、現実とネットという彼女の世界の両柱で、同時に「大切な人」を奪われようとしているという事実に、その精神状態は決壊寸前まで追い込まれていた。
その後の配信はまさに地獄だった。ルナのトークは完全に精彩を欠き、露骨に上の空になった。
「ねえ、みんなはどう思う? 大切なものを横取りする人って最低だよね?」
笑顔のアバターのまま低く湿った声で繰り返される呪詛。これ以上続けさせれば、結愛の感情が完全に暴走し、配信者としてのキャラクターを崩壊させてしまう危険性が極めて高かった。
僕は震える指でキーボードを叩き、運営用の裏回線から結愛のサブモニターに直接メッセージを飛ばした。
『P:ルナ、機材の調子が悪いんだ。音声にノイズが乗ってきたから、今日は早めに切り上げよう』
数秒後、配信画面の中でルナのアバターがビクッと肩を揺らした。
「あ……えっと、ごめんねみんな。Pさんから、ちょっと機材の調子が悪いって連絡が来ちゃって。今日はちょっと早いけどここで終わろうかな。おつルナでしたー」
逃げるように配信終了のボタンが押され、YouTubeの画面が暗転した瞬間、どっと押し寄せる疲労に深く息を吐き出す間もなく、自室のドアがバンッと乱暴な音を立てて開け放たれた。
「……!」
そこに立っていた結愛は、うつむいたまま肩で荒い息をしていた。前髪の影に隠れて表情は読めない。だが、彼女から発せられるドス黒いオーラが、部屋の空気を急速に凍らせていく。
結愛は僕がPであることを知らない。だから彼女は今、ネットの泥棒猫(白雪みぞれ)への凄まじい憎悪を胸に秘めたまま、現実の僕に対して、もう一つの怒りをぶつけるしかなかったのだ。
「今日、委員会だなんて嘘だったんでしょ」
地を這うような掠れた声だった。彼女はゆっくりと僕に歩み寄り、いきなり僕の胸倉を両手で強く掴み上げた。
「陸が学校から帰ってきた時の香水の匂い……本当は、変な女と一緒にいたからなんでしょ!?」
「ち、違うよ! あれは本当に……」
「嘘つかないでー!!」
結愛の絶叫が部屋に響いた。彼女は怒りと悲しみで顔を歪め、大粒の涙をポロポロとこぼし始めた。
「どうしてみんな、私から大切なものを奪おうとするの……!? 陸は私のお兄ちゃんでしょ!? 私だけのものなのに、なんで他の女の匂いなんかさせて帰ってくるのよ!!」
結愛の手が、僕のシャツをちぎれんばかりに強く握りしめている。彼女の「どうしてみんな」という言葉には、白雪みぞれへの怒りも確実に含まれていた。彼女は今、二つの嫉妬に引き裂かれ、パニックに陥っているのだ。
真実を知っている僕だけが、彼女の絶望の正体を完全に理解していた。しかし、僕がPであることを明かせない以上、その誤解を解くことは絶対に不可能だった。
「悪かったよ。嘘をついたのは謝る。でもやましいことは本当に何もないんだ」
僕は必死に彼女の背中を抱きしめ、なだめるように言葉を紡いだ。
「僕は結愛の味方だ。結愛だけのものだから心配しなくていいよ」
結愛はしゃくりあげながら顔を上げ、赤く腫らした目で僕を睨みつけた。
「……じゃあ証明して。今夜はずっと私と一緒にいて。私の部屋で、私が眠るまで、絶対にどこにも行かないで」
それは提案ではなく、逃れられない束縛の決定だった。僕は小さく頷くことしかできなかった。
深夜一時。結愛のベッドの中で、僕は完全に身動きが取れなくなっていた。彼女はタコのように僕の身体に手足を絡みつかせ、僕が少しでも動こうとすると、寝言のように呻き声を上げて腕の力を強めてくる。暗闇の中、僕は天井を見つめながら、これからどうすればいいのかという絶望的な自問自答を繰り返していた。
その時、僕の枕元に置いてあったスマートフォンの画面が、無音でフワリと光った。結愛を起こさないように、ギリギリ動かせる左手だけでそっとスマホを引き寄せ、画面を確認する。通知は、Discordからのダイレクトメッセージだった。
『白石みぞれ:妹さんのご機嫌取り、お疲れ様。起きてるかしら?』
『白石みぞれ:今から少しだけボイス通話でお話しましょ。もちろん妹さんには内緒でね。もし無視したら、明日の配信で何を発言するか、保証できないよー』
画面の向こうには、僕のすべてを握り、真綿で首を絞めるようにいたぶろうとするサディストの脅迫者。そして隣には、二人の泥棒猫から居場所を奪われまいと僕を抱きしめて眠る、完全に狂気に囚われたヤンデレの妹。
(……断れるわけがないだろ)
僕は結愛の腕の隙間を縫うようにして、ベッドを抜け出すための算段を必死に考え始めていた。この深夜の密会通話が、さらに最悪の破滅へと繋がる引き金になるとは、この時の僕は知る由もなかった。




