第13話「甘い束縛の夜と忍び寄る推測の糸」
水曜日の朝──
僕の意識は泥のように重く濁った疲労感と共に浮上した。窓から差し込む朝日はいつも通りに明るく、小鳥のさえずりすら聞こえてくるような清々しい朝だというのに、僕の心には分厚い暗雲が垂れ込めていた。
昨夜、僕は一睡もできなかった。頭の中で何度もリフレインするのは、昨晩のボイス通話でのルナ──妹である結愛のひどく湿り気を帯びた声だ。
「みぞれ先輩がPさんのことを自分のものみたいに話してた……どこにも行かないよね!? 私から離れないって誓って!」
半狂乱に近い状態だった彼女をなだめすかし、なんとか通話を終えた後も、僕の心臓は嫌な汗をかいたまま冷え切っていた。結愛のPに対する執着は、もはや単なる依存という言葉では片付けられない。彼女の世界において、僕は酸素であり、神であり、絶対に他の誰かと共有してはならない完全なる所有物になり果てている。
「……はあ」
重い溜息をつきながらベッドから身を起こし、ふらつく足取りで一階のリビングへと向かう。洗面所で冷たい水を顔に叩きつけても、目の下にできた濃いクマと、胃の奥で渦巻く鉛のような重さは消えなかった。
「あ、おはよう陸! 今日の朝ごはんはフレンチトーストだよ!」
リビングのドアを開けると、エプロン姿の結愛がフライパンを片手に満面の笑みで振り返った。その姿はどこからどう見ても『明るくて家庭的で、兄想いの完璧な妹』そのものだった。昨夜、画面の向こうで嫉妬に狂い、泣き叫んでいたヤンデレVTuber『星降ルナ』と同一人物だとは到底信じられない。
「……おはよう。なんか、朝から手が込んでるね」
「えへへ。だって陸、最近ちょっとお疲れ気味みたいだから。甘いもの食べてしっかり元気出してもらわなくちゃね」
結愛は機嫌よく鼻歌を歌いながら、湯気を立てるフレンチトーストを僕の前の皿に盛り付けた。甘いメープルシロップとバターの香りが食欲をそそるはずなのだが、僕の胃袋は完全に収縮しており、一切の固形物を拒絶したがっていた。
「ほら、冷めないうちに食べて。……あ、コーヒーにはお砂糖とミルク、たっぷり入れておいたからね。陸は甘党だもんね?」
「あ、ああ……ありがとう」
僕が引きつった笑顔でフォークを手に取ると、結愛は向かいの席に座り、両手で頬杖をついて僕が食べる様子をじっと見つめ始めた。
「……美味しい?」
「うん。すごく美味しいよ」
「よかったぁ」
結愛はふにゃりと愛らしい笑顔を浮かべた。しかし次の瞬間、その瞳の奥にスッと温度のない冷たい光が宿った。
「ねえ、陸」
「ん?」
「学校で……変な女に近づいちゃダメだからね」
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
結愛の声のトーンは、さっきまでの明るい妹のそれと何も変わっていない。しかし、その言葉の裏に込められた圧倒的な『圧』と、逃げ場を塞ぐような粘着質な響きは、間違いなく昨夜のルナのものだった。
「陸は私のお兄ちゃんだもん。他の誰かに優しくしたり、他の女の子と仲良くおしゃべりしたりするの、私あんまり好きじゃないな。……わかってるよね?」
結愛はテーブル越しに身を乗り出し、僕の制服の乱れたネクタイにそっと手を伸ばした。彼女の細く白い指先が、僕の首元でゆっくりと結び目を直していく。その行為自体は甲斐甲斐しい妹のものだが、僕にはそれが、首輪をきつく締め上げられているようにしか感じられなかった。
「……わ、わかってるよ。僕には結愛しかいないから」
僕が必死に平静を装ってそう答えると、結愛はパッと花が咲いたような笑顔に戻り、「うん! 陸はいいお兄ちゃんだね!」と無邪気に僕の頭を撫でた。
現実の妹からの笑顔の牽制。バーチャルの世界だけでなく、現実の僕の行動すらも完全に支配しようとする結愛の狂気。僕はフレンチトーストの甘さを一切感じられないまま、ただ機械的にそれを胃に流し込むしかなかった。
這うようにして登校した僕を待っていたのは、息の詰まるようなもう一つの地獄だった。朝のホームルーム前、喧騒に包まれる教室に入った僕は、すぐさま斜め前の窓際の席へと視線を向けた。
そこには、黒縁メガネをかけた白石みぞれが、静かに文庫本を開いて座っていた。昨日のコラボ配信での出来事がある。彼女は僕が『有能P』ではないかと強い疑いを持ち、カマをかけてきた。当然顔を合わせれば、何かしらの追及があるはずだ。僕は胃を痛めながら、彼女がどう出てくるかを身構えていた。
しかし白石は僕に一切話しかけてこなかった。チラリとこちらを一瞥し、メガネの奥の瞳で僕の存在を確認しただけで、すぐに視線をページに戻してしまったのだ。
(……なんだ? なんで何も言ってこないんだ?)
午前中の授業が進んでも状況は変わらなかった。休み時間になるたびに、僕は白石の動向を窺っていたが、彼女は他の女子と談笑するか、一人で本を読んでいるかのどちらかだった。僕の方を振り向くことすらしない。
だが、その『無言』こそが、何よりも恐ろしいプレッシャーとなって僕にのしかかっていた。彼女の明晰な頭脳なら、昨日の僕の動揺や言葉の端々から、すでに何かを掴んでいるに違いない。それなのに何も言ってこないということは、確実に僕の逃げ道を塞ぐための罠を張っているということだ。
蛇に睨まれた蛙のように、僕は冷や汗を流しながら、時計の針が進むのをただ絶望的な気分で見つめることしかできなかった。
それに追い打ちをかけるように、僕のスマートフォンがポケットの中で定期的に震える。
『結愛:今、何してるの?』
『結愛:休み時間だよね。誰かと話してる? まさか女の子じゃないよね?』
『結愛:お昼ご飯、一人で食べるんだよね?』
結愛からの執拗な監視メッセージだった。白石からの無言の圧力と、結愛からの物理的な監視。二つの巨大な執圧に挟まれ、僕の精神は悲鳴を上げていた。
昼休み──
逃げるように教室を飛び出し、人気のない中庭のベンチで一人パンをかじっていた僕のスマホが再び震えた。
結愛からの追撃かと思い、うんざりしながら画面を開いた僕の目に飛び込んできたのは、見慣れぬアイコン──白石みぞれからのダイレクトメッセージだった。
『白石みぞれ:午前中は随分と落ち着きがなかったよね。ずっと私のこと見てたでしょ?』
『白石みぞれ:昨日のお話の答え合わせ、しよっか』
『白石みぞれ:放課後、図書室の奥の書架に来てね。もし逃げたら、ルナちゃんのPくんについて、私のすっごく面白い推測を学校の裏掲示板に書き込んじゃおうかな』
背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。これだ。これこそが、彼女が午前中ずっと沈黙を保っていた理由だったのだ。僕の焦燥感を限界まで高め、精神的に追い詰めた上で、逃げられない状況を作ってから呼び出す。
彼女はまだ確たる証拠を掴んでいないはずだ。しかしここで無視をすれば、彼女は本当に推測をネットの海に放り込むだろう。そうなれば特定班が動き出し、僕と結愛の身バレは時間の問題になる。
図星を突かれたくなければ、彼女の土俵に上がるしかない……
僕は絶望的なため息をつき、震える指で結愛宛てに『今日は委員会があるから、放課後は少し遅くなるよ。男しかいないから安心して』と決死の嘘のメッセージを送り、白石には『わかった』とだけ返信を打った。
放課後──
人気のない図書室の最奥。古びた海外文学全集が埃を被って並ぶ薄暗い書架の陰に、彼女は立っていた。
「来てくれて嬉しいわ、天野くん」
白石みぞれは本棚に背を預け、黒いタイツに包まれた脚を交差させながら、僕に向かって妖艶な笑みを向けた。薄暗い空間の中で、彼女の赤い唇とメガネの奥の瞳だけが酷く生々しく見えた。
「面白い推測ってなんだよ……。僕は忙しいんだ。委員会に顔を出さなきゃいけないから早くしてくれ」
僕が精一杯の虚勢を張って睨みつけると、白石は「ふふっ」と楽しげに肩を揺らした。
「委員会? 嘘ばっかり。妹さんに怯えて適当な言い訳を作ってきたんでしょ?」
「なっ……!」
「だって天野くんの妹さん、すごく可愛いもんね。あんなに熱狂的で、少し……いえ、かなり危うい愛情を向けてくれる『星降ルナ』ちゃんにそっくり」
ビクッと僕の肩が大きく跳ねた。
白石の目が面白そうに細められる。彼女はゆっくりと本棚から背を離し、僕の方へと一歩近づいてきた。
「昨日のコラボ配信、天野くんも見てたんでしょ? ルナちゃん、私がPくんの話をした途端、すごく焦ってた。まるで自分の大切な『お兄ちゃん』を、泥棒猫に取られそうになった妹みたいに必死に威嚇してきてさ」
彼女はさらに一歩近付いてきた。カフェで嗅いだのと同じ、甘く、どこか毒を含んだような香水の匂いが、図書室の古い紙の匂いに混じって僕の鼻腔をくすぐった。
「天野くんと妹さんは二人暮らしよね。そして、ルナちゃんの配信スケジュールと、天野くんが放課後すぐに帰宅する時間は完璧に一致してる。昨日の配信の後、天野くんが私と通話(※チャットや通話でのやり取り)を急いで切ったタイミングも、ルナちゃんが配信を終えた直後」
白石は、まるで探偵が犯人を追い詰めるように、淀みなく言葉を紡いでいく。
「そして何より、あのPくんの異常なほどの情報処理能力と、配信を裏で操る手際の良さ。天野くんは元パソコン部で、サーバー構築や音声の加工技術まで扱ってたわよね? 以前、文化祭の出し物であなたが裏方を仕切っていたのを、私はちゃんと覚えてるわ」
「それは……ただの偶然だ! ネットの知識がある奴なんてこの学校にいくらでもいるだろ。声だってボイスチェンジャーを使えば誰でもごまかせる!」
僕が声を荒げて反論すると、白石はクスリと笑った。
「そう……偶然よ。一つ一つはね」
白石はついに僕の目の前まで歩み寄り、僕を本棚へと追い詰めた。背中に硬い本の背表紙が当たる。逃げ場はない。
彼女の細く白い指先が、僕の制服のネクタイにするりと触れた。今朝、結愛が直したばかりの結び目を彼女は挑発するように指先でなぞる。
「でもこれだけ偶然が重なると、それはもう必然って呼ぶのよ。ねえ、天野くん。あなたが有能Pなんでしょ? そして、あのヤンデレ気味なルナちゃんの中身は、君の可愛い可愛い妹の──」
「やめろ!!」
僕は思わず大声を出しそうになり、慌てて両手で口を覆った。図書室の静寂が、僕の致命的な焦りをより一層際立たせる。周囲に誰もいないとはいえ、今の声は大きすぎた。全身から滝のように冷や汗が噴き出し、膝の震えが止まらない。
白石はネクタイから手を離さず、満面の笑みを浮かべて僕の耳元に唇を寄せた。
「……ふふっ。図星ね」
彼女の甘い吐息が耳にかかり、全身の産毛が総毛立つ。
「やっぱり私の勘は当たってた。昨日までは確証がなかったの。でも、今の天野くんの必死すぎる反応を見て確信に変わったわ」
「っ……!」
やられた! 完全にハメられた。
彼女はまだ、録音データのような確たる物理的証拠を掴んでいたわけではなかったのだ。ただの推測でカマをかけ、僕のこのパニックに陥った反応を引き出すことこそが、彼女にとっての最大の答え合わせだった。
僕は自ら彼女の張った蜘蛛の巣に飛び込み、絡め取られてしまったのだ。
「安心して。すぐに掲示板に書き込んだりなんてしないわ。こんな最高の切り札、もっと有効に使わないと勿体ないじゃない?」
白石はゆっくりと僕から離れ、僕の顔を下から覗き込むようにしてじっと見つめた。その瞳には、完全な勝者の余裕とサディスティックな知的好奇心が渦巻いていた。
「これから私の言うことを少しだけ聞いてくれるわよね? P……じゃなくて、天野くん」
「……何をさせる気だよ」
「さあね? でも、君が私の期待に応えてくれるなら、この秘密は私と君だけのものにしておいてあげる。とりあえず、今夜のルナちゃんの配信を私もこっそり見に行こうかな。君が裏でどんな顔して彼女をあやしてるのか、想像するだけでゾクゾクするわ」
白石はヒールを高く鳴らして背を向けると、「じゃあね、有能Pくん」とだけ言い残し、図書室の奥へと消えていった。
静まり返った書架の陰に僕だけが取り残される。胃の奥から込み上げてくる吐き気を必死に飲み込みながら、僕はゆっくりとその場にへたり込んだ。
自宅で僕のすべてを縛り付けようとする、結愛の狂気的な愛情。学校で僕の秘密を握り、真綿で首を絞めるようにいたぶろうとする、白石みぞれの知的な悪意。
僕は今、後戻りのできない二つの地獄の入り口に完全に足を踏み入れてしまったことを、絶望と恐怖の中で悟るのだった。




