第11話「コラボ配信と剥がれかける仮面」
金曜日の夜──
母親不在の息が詰まるような二人きりの密室生活もいよいよ佳境に入り、週末の気配が色濃くなってきた午後八時。
僕の平穏な日常は、甘く煮詰められた狂気によって、ゆっくりと確実に侵食されつつあった。
「……陸、ご飯できたから下りてきなさい」
自室のドアの隙間からひょっこりと顔を出した結愛が、少し上擦った声で僕を呼んだ。一階のリビングへ下りると、スパイシーな香りが鼻腔をくすぐった。ダイニングテーブルの上には、湯気を立てる大盛りのカレーライスと、彩りよく盛り付けられたツナサラダ、そして冷たい麦茶が完璧な配置で並べられている。
スーパーで遭遇した白石みぞれへの強烈な嫉妬から一夜明け、結愛の「お世話暴走」はさらに拍車がかかっていた。昨日は僕の洗濯物を勝手に洗い、今日は僕の好物である少し辛口のポークカレーを、わざわざ市販のルーではなく複数のスパイスを調合して煮込んで作ってくれたらしい。
「すごいな……。いただきます。……うん、美味い」
僕がスプーンを止めずに言うと、向かいの席に座って僕が食べるのをじっと見つめていた結愛が、フンと得意げに鼻を鳴らした。
「当然でしょ。あんたみたいなヒョロヒョロのモヤシ男、いざって時に頼りにならないじゃない。ちゃんと一粒残さず食べて少しは筋肉つけなさいよね」
そう言い立てた後、結愛は少し気まずそうに視線を逸らし、コホンと小さく咳払いをした。
「今日の夜は、大事な友達と電話するから、絶対に私の部屋に入ってこないでよね」
「わ、わかってるよ(こっちだって夜は大事なプロデューサーの仕事があるんだから……)」
結愛はスッと長い睫毛を伏せ、自分の分のカレーを小さな口で上品に運び始めた。以前のような、僕の存在そのものを否定するようなトゲトゲしい空気は一切ない。むしろ、僕という絶対的なテリトリーの中で、兄の庇護と、自分のマーキング(匂い)に包まれて安心しきっている血統書付きの猫のような穏やかさがそこにはあった。
だが、その穏やかな水面の下に、白石へのドス黒い嫉妬と、Pに対する狂気的な独占欲が、今にも噴火しそうなマグマのように煮えたぎっていることを、僕は嫌というほど知っている。
午後九時──
星降ルナと白雪みぞれの合同コラボ配信がスタートした。
僕の自室の薄暗い空間で、デュアルモニターの青白い光が顔を照らす。左画面にはOBSの音声・映像管理画面、右画面には滝のように流れるYouTubeのコメント欄が映し出されている。
「こんみぞー! ミリオンプロダクションの白雪みぞれだよー! 今日はなんと、今大注目の個人勢VTuber、星降ルナちゃんとのコラボ配信です! ルナちゃん、よろしくねー!」
「こ、こんばんはっ! 星降ルナです! みぞれ先輩、今日はよろしくお願いします……!」
業界トップクラスである白雪みぞれ(白石)のネームバリューと集客力は、控えめに言って凄まじかった。配信開始からわずか数分で、同時接続者数は三万人をあっさりと突破。ルナの普段の配信の五倍以上の人間が、この一つの画面を見つめている。
今日の企画は『先輩後輩でのホラーゲーム実況・絶叫ASMR対決』だ。二人はそれぞれ高感度のバイノーラルマイクを使用し、ホラーゲームをプレイしながら、その恐怖の息遣いや悲鳴をリスナーの鼓膜に直接届けるという、ファンにはたまらない趣向になっている。
「きゃあああああっ!? なになになに!? 今、後ろで音したっ!」
「あはは、ルナちゃんビビりすぎー。ほら、右のロッカーが怪しいから開けてみて?」
「む、無理です無理です! Pさん、助けてぇ……っ!」
[鼓膜が幸せすぎる]
[ルナちゃんの悲鳴たすかる]
[ヤンデレの時の声とのギャップがたまらん]
[みぞれ先輩のSっ気が最高www]
[右耳からみぞれちゃん、左耳からルナちゃんとか至福か?]
白石のトークスキルと場回しは、流石プロとしか言いようがなかった。ルナの可憐なビビリ具合を上手く引き出し、リスナーが喜ぶようなシチュエーションを次々と作り出していく。ルナ(結愛)も、憧れの先輩との初コラボということもあり、普段以上のポテンシャルを発揮して、怯える可愛らしい後輩キャラクターを見事に演じ切っていた。
ゲーム自体は終始大盛り上がりで進行し、一時間半ほどで無事にクリアを迎えた。そこから二人の雑談コーナーへと移行した。
僕の心臓が、嫌な警鐘を鳴らし始めたのはその時だった。
「いやー、ルナちゃん最高だった! この悲鳴は絶対に切り抜かれるね。……あ、そうだ。今日はルナちゃんのプロデューサーのPさんも、通話の裏で配信を管理してくれてるんだよね?」
白雪みぞれのアバターが、画面の向こうでニヤリと、獲物を見つけた肉食獣のように笑った気がした。
僕はマウスを握る手にぐっと力を込めた。手のひらにじわっと脂汗が滲む。
「はい! Pさんはいつも私の配信を裏で、一番近くで支えてくれてるんです!」
「ねえ、せっかくだし、Pさんも少しだけマイクオンにして、うちのリスナーに挨拶してよ。ルナちゃんをこんなに魅力的にプロデュースしてる人がどんな声なのか、みんなも気になってると思うし」
[お、有能Pの声聞けるのか!?]
[Pさん出ておいでー]
[ルナちゃんを見つけて育ててくれてありがとうPさん]
コメント欄も、白石の提案に瞬時に同調して歓迎ムード一色になる。この流れで断れば、配信の空気に水を差すことになる。僕はボイスチェンジャーのフィルターが確実にオンになっていることを二度確認し、Discordのマイクのミュートを慎重に解除した。
「……初めまして。星降ルナのプロデューサーをしております、Pと申します。本日は弊社のルナがお世話になっております」
低く落ち着いた大人の男性の声。
「わぁ、すごくいい声! 大人の余裕って感じですねー!」
白石は無邪気なアイドル声を出しながらも、目に見えない鋭い刃を僕の喉元にピタリと突きつけてきた。
「実はね、Pさんの声のトーンとか、言葉の間の取り方……私のリアルの同級生の男の子にすっごくそっくりなんですよ」
「……それは、、、奇遇ですね」
僕は背筋に氷柱を差し込まれたような悪寒に耐えながら、必死に平静を装って答えた。
「ええ、本当に奇遇。その子もね、ルナちゃんみたいに可愛い妹さんがいるらしいんです」
ドクンッ──
心臓が激しく跳ね上がり、肋骨の内側を強く打った。
白石のやつ、五万人近いリスナーが見ているこの生配信の場で、僕の正体を暴くためのトラップを仕掛けてきたのだ。壁を隔てた隣の部屋で配信している結愛も、その言葉にピクリと反応したのが、画面上のアバターから伝わってきた。
「妹さん……ですか?」
ルナの声が、わずかに、本当にわずかにだが、温度を失って低くなった。
「そう! でね、実は昨日、近所のスーパーでその男の子に偶然会ったんですけど、妹さんと仲良く挽肉を買ってたんですよ。明日はハンバーグだーって、すっごく楽しそうに」
(……やめろっ! それ以上言うな!!)
僕は心の中で絶叫した。頭の血管がブチ切れそうだった。
『スーパー』『妹と二人』『ひき肉』『明日はハンバーグ』
これだけの具体的すぎるキーワードを並べられれば、昨日実際にそれを経験している結愛の頭脳が、一直線に「P=兄の陸」という致命的な真実に辿り着いてしまう! 結愛の理性的な思考回路がパズルを完成させる前に、なんとかして話題を強引に逸らさなければ──
僕がマイクに向かって声を張り上げようとした、まさにその瞬間だった。
「み、みぞれ先輩っ!!」
鼓膜を突き破るような切羽詰まったルナの大声が、バイノーラルマイクを通して響き渡った。画面の中の星降ルナのアバターが、白雪みぞれのアバターの前に立ちはだかるように、バンッと身を乗り出した。
「Pさんは……Pさんは、私のプロデューサーですっ!」
「え? ル、ルナちゃん?」
流石の白石も、予定調和を崩すルナの異常な剣幕に少し戸惑ったような素の声を出す。
「リアルの同級生だか何だか知りませんけど、Pさんを先輩の知り合いの人なんかと重ねないでくださいっ! Pさんはスーパーなんかに行きません! Pさんは……Pさんは私だけのものなんだからっ!!」
ハァッ、ハァッと、ASMR用の高感度マイクが、ルナの荒く熱を帯びた生々しい息遣いまで克明に拾い上げる。
それは、兄である陸とPが同一人物であるという「論理的な推論」よりも先に、自分が愛してやまない絶対的な存在(P)を、他の女(白石)のリアルの思い出で上書きされそうになったことへの、純粋でドス黒い『嫉妬』と『独占欲』の大爆発だった。自分のテリトリーを侵されそうになった猛獣が、理屈を飛び越えて本能のままに牙を剥いたのだ。
「……他の女の人の影なんて見たくない。Pさんは私だけを見ててくれればそれでいいの! ねえ、そうでしょ? Pさんは、私のことだけが好きですよね……?」
バイノーラルマイクの右耳から、ねっとりと脳髄に絡みつくような、本物のヤンデレボイスが注ぎ込まれる。それは台本に用意された演技ではない。結愛の魂の底から湧き上がった、本物の狂気だった。
[ルナちゃんガチで草]
[みぞれ先輩、地雷を踏み抜くwww]
[ヤンデレ助かる!!! もっとやってくれ!!!]
[これは有能Pも逃げられませんわ]
[公開告白てぇてぇ]
[ルナちゃんの独占欲最高すぎるだろ]
コメント欄は、これを完全に『ルナちゃんの高度なヤンデレプロレス』として受け取り、今日一番の爆発的な盛り上がりを見せていた。
白石も、これ以上この話題を引っ張れば、結愛のリアルな感情が暴走して配信の空気がガチの放送事故になりかねないと判断したのだろう。トップVTuberとしての恐るべき反射神経で、すぐさま明るい笑い声に切り替えた。
「あはははっ! ごめんごめんルナちゃん、冗談だってば! Pさんはルナちゃんだけの専属プロデューサーだもんね。いやー、ルナちゃんのPさんへの愛が深すぎて、先輩びっくりしちゃった」
「……冗談、ですか? もう、からかわないでくださいよー、みぞれ先輩っ」
ルナも、荒い息を整えながらなんとか踏みとどまって普段の可憐なキャラクターへと着地した。
僕は全身の毛穴から冷たい脂汗を噴き出しながら、深く長く息を吐き出してデスクに突っ伏した。
助かった──
結愛の異常なまでの独占欲と嫉妬心が、結果的に白石の仕掛けた論理的なトラップ(身バレのヒント)を噛み砕き、強引に飲み込んでしまったのだ。ルナの脳内では今、「Pの正体が陸かもしれない」という疑惑の検証よりも、「みぞれ先輩がPさんに色目を使った」という激しい怒りの方が遥かに勝っている状態だろう。
その後、配信は和やかなエンディングを迎え、同接五万人というルナにとっての歴史的大記録を叩き出して無事に終了した。
「おつみぞー!」
「おつルナでしたー!」
配信終了のボタンを押し、モニターが暗転した瞬間、僕はゲーミングチェアからずり落ちそうになるほど全身の力が抜けていくのを感じた。
(……白石のやつ、絶対に僕の正体に確信を持ってるぞ。次学校で会った時、何を言われるか分かったもんじゃないぞ……)
だが、恐怖はそれだけでは終わらなかった。
バンッ!!!
隣の部屋のドアが勢いよく開き、ドスドスと廊下を踏み鳴らす足音が聞こえたかと思うと、僕の部屋のドアがガチャガチャと回されて勢いよく開いた。
「うわっ、結愛!?」
入ってきた結愛は目元を真っ赤にし、半泣きのような、それでいて狂気を孕んだ顔をしていた。彼女は返事も待たずに僕に抱きつき、そのままベッドへ押し倒すように僕の胸元に顔をうずめてきた。
「結愛……っ!? ちょ、お前──」
「……嫌なことがあったの! すっごくムカつくことがあって……急にお兄ちゃんの顔が見たくなったの」
結愛は僕のTシャツをギュッと握りしめ、僕の服の匂いを強く吸い込む。
「……何があったんだ?友達とケンカでもした?」
僕が探るように尋ねると、結愛は僕の胸元でギリッと歯ぎしりをした。
「……あのメガネ女の顔が急に頭に浮かんできて、すっごくイライラしたの。……ねえ陸、陸はあの女のこと好きじゃないよね? 私を置いてどっか行ったりしないよね……?」
「行かないよ。ただのクラスメイトだって言っただろ」
「……うん。陸は私のお兄ちゃんだもんね……私だけのものだよね……」
Pに近寄る女への、ドス黒い嫉妬。陸に近寄る女への、理不尽な嫉妬。
その二つの鋭利な矛先が、実は同じ一人のクラスメイトに向かっているというこの状況の異常さに、僕は眩暈がしそうだった。
「陸はどこにも行かないよね……? ずっと、私のそばにいてくれるよね……?」
結愛は僕の腕をきつく痛いほどに抱きしめ、僕の服の匂いを深く深く吸い込んだ。
その姿は、暗闇の恐怖に怯える迷子のように脆く、同時に、一度捕まえた獲物を絶対に逃さない蛇のように執念深かった。
「……ああ。僕はどこにも行かないよ」
僕がそう答えると、結愛はようやく安心したようにフニャりと力を抜いて僕の腕の中で目を閉じた。
壁に掛けられた時計の針は深夜の十二時を回ろうとしていた。
母親が帰ってくる日曜日まであと二日。僕の平穏な日常にかけられた仮面は、音を立ててひび割れ始めていた。




