第10話「エンカウントと嫉妬の火種」
スーパーの生鮮食品売り場。
冷房の効いた通路で、三人の間に流れる時間は完全に凍りついていた。
「……陸、この人だれ?」
僕の隣でショッピングカートの縁を握りしめる結愛の声は、底知れぬほど冷たく、そして重かった。彼女の目は、数分前まで「明日はハンバーグがいいな」と無邪気に笑っていた妹のそれではない。自分の絶対的なテリトリーに足を踏み入れてきた外敵を、骨の髄まで威嚇する猛獣の瞳だった。
対する白石みぞれは、いつもの黒縁メガネの奥で少しだけ目を丸くした後、すぐに柔らかい微笑みを浮かべた。
「ああ、ごめんなさい。天野くんの妹さん、だよね? 私は天野くんと同じクラスの白石みぞれ。いつもお兄さんには学校で……色々とお世話になってるの」
「……色々?」
結愛の眉がピクリと跳ねた。白石の言う「色々」とは、もちろんVTuber活動における機材トラブルの相談や、裏話の共有といった秘密のやり取りのことだ。だが、事情を知らない結愛の耳には、それがとてつもなく親密で特別な関係を匂わせる言葉として響いたらしい。
「白石さんも買い物? 今日は特売日だからね」
僕は必死に平静を装い、二人の間に割って入るように声をかけた。
「うん。うちも親が仕事で遅いから夕飯の買い出しにね。……でも、天野くんが妹さんとこんなに仲良しだなんて知らなかったな。学校では、家で妹と冷戦状態だっていつも愚痴ってたのに」
「っ!? ちょ、お前……!」
(バカ、余計なことを言うな!)
僕の心臓が嫌な音を立てた。案の定、結愛の瞳のハイライトがスッと消え、その顔に般若のような凄みが宿った。
「へえ……。陸、学校でこの女に私のこと話してるんだ? 家での私のこと、この女に愚痴ってたんだ? ……ふうん」
「ち、違う! それは昔の話で……!」
それにしても……と、白石が結愛の顔をじっと覗き込んできた。
「妹さん、すごく可愛い声してるね。どこかで聞いたことがあるような……もしかして配信とかやってたりする?」
ドクンッ!!
僕の心臓が、今度こそ口から飛び出そうになった。ミリオンプロダクションのトップVTuberである白雪みぞれ。彼女の「音」に対する絶対的な嗅覚が、結愛の声の波長から『星降ルナ』の片鱗を感じ取ったのだ。
「……は? 配信? 何言ってるの、この女。キモいんだけど!」
結愛は露骨に嫌悪感を剥き出しにして、僕の腕をギュッと両手で抱き込んだ。そして、白石に見せつけるように僕の肩に顔をすり寄せた。
「陸、もう行こ。この人と話してると空気悪くなる。早くハンバーグの材料買ってお家に帰ろ?」
「あ、ああ……そうだな。じゃあ、また学校で」
「うん。じゃあね天野くん。妹さんも」
白石は、僕の腕にべったりとしがみつく結愛の姿を意味深な視線で見つめた後、ひらひらと手を振って精肉コーナーの奥へと消えていった。彼女の背中が見えなくなった瞬間、結愛は僕の腕からバッと離れ、ズンズンとカートを押して歩き始めた。
「……おい、結愛」
「…………」
「怒ってるのか?」
「……別に怒ってない。ただ、あんたが学校であんな地味なメガネ女とヘラヘラ話してるって知って、少し吐き気がしただけ」
声は震え、その横顔にはドス黒い嫉妬の炎がメラメラと燃え上がっていた。帰りの道のりも、家に着いてからの夕食作りも、結愛は一言も口を利かなかった。ただ、出来上がったハンバーグは僕の顔の倍くらいある巨大なサイズになっており、そこにケチャップで『バカ』と乱暴に書かれていた。
そして、その日の夜十一時。
僕の自室のパソコンモニターには、Discordの通話画面が開かれていた。結愛の嫉妬による家庭内の修羅場から数時間後。今度はバーチャルの世界で彼女たちを顔を合わせさせなければならない。
──そう、星降ルナと白雪みぞれの、コラボに向けた初顔合わせのオンライン会議である。
「あ、もしもし? 聞こえますかー? ミリプロの白雪みぞれです!」
ヘッドホンから、白石みぞれの普段のトーンとは全く違う、キラキラとしたアイドル声(白雪みぞれの声)が響いた。
「はい、聞こえております。初めまして、星降ルナのプロデューサーを務めておりますPと申します。本日はお時間いただきありがとうございます」
僕はボイスチェンジャーを通した、深みのある大人の男性の声で返答した。
「初めまして! 星降ルナです! わぁぁ……本物のみぞれ先輩だ……っ! 私、ずっと配信見てました! 今日はよろしくお願いします!」
隣の部屋から繋いでいる結愛もまた、スーパーでの凶暴なヤンデレ妹の顔を完全に隠し、憧れの先輩に対する純粋で可憐な『星降ルナ』の声を弾ませていた。
(……この二人、数時間前にスーパーで殺し合いの一歩手前みたいな睨み合いをしてたんだぞ……)
僕はモニターを見つめながら、現実とバーチャルの凄まじいギャップに、胃に穴が開きそうなほどのストレスを感じていた。もし今ここで、「さっきスーパーで会いましたよね」なんて話題が出たら、僕の正体も、ルナの正体も、すべてが木端微塵に吹き飛ぶ。
「ルナちゃんのシチュボ、すっごく良かったよー! あんなにリアルなヤンデレ感、なかなか出せないよ。うちのリスナーも絶賛してたし!」
「ほ、本当ですか!? 嬉しいです……っ! Pさんが書いてくれた台本がすごく良くて、私、ただそれに心を込めただけで……!」
[ルナちゃんマジで才能の塊]
[みぞれちゃんとのコラボとか神すぎる]
[てぇてぇ空間がここにある]
(※これは事前のルナの枠で、リスナーたちがコラボ決定の報告を受けた時のコメントログだ。ファンたちもこのコラボに熱狂している)
「Pさんってすごく有能なんですね! ルナちゃんのこと、本当に大切にプロデュースしてるのが伝わってきます。なんだか、私の知ってる「ある人」に雰囲気が似てるかも?」
白雪みぞれ(白石)が、フフっと意味深な笑い声を漏らした。
「……ある人、ですか?」
「はい。私の同級生に、裏方気質ですごく頼りになる男の子がいるんです。Pさんの喋り方とか間の取り方、その子にそっくりだなぁって」
全身からブワッと冷や汗が噴き出した。白石のやつ、まさか僕の正体に勘づいているんじゃないだろうな? いや、ただの偶然の一致として話しているだけか?隣の部屋の結愛も、その言葉にピクリと反応したのが分かった。
「へ、へえ……! みぞれ先輩の同級生さんに……。でも、Pさんは私だけの特別なプロデューサーなので、誰にも似てないですよ! ねっ、Pさん!」
ルナの声に強烈な独占欲が混じる。現実の兄(陸)に近づく白石に嫉妬し、バーチャルのPを誰かと比較されることにも嫉妬する。彼女の執着の刃は、今や全方位に向いて振り回されていた。
「あ、はは……光栄です。さて、コラボの企画内容ですが……」
僕は必死に話を逸らし、話題をビジネスの方向へ軌道修正した。その後は、お互いのマネージャー(僕はPとして一人二役だが)を交えての具体的なスケジュール調整と、企画のすり合わせが行われた。
企画は『先輩後輩でのホラーゲーム実況・絶叫ASMR対決』という、両者の持ち味を活かしたものに決まった。
一時間ほどの会議が終わり、通話が切れた後、僕はどっと押し寄せてきた疲労によってゲーミングチェアの背もたれに深く沈み込んだ。
「……寿命が十年くらい縮んだ気がする」
だが、安息の時間は長くは続かなかった。
コンコンコン。
部屋のドアが遠慮がちにノックされた。
「陸……起きてる?」
ドアの向こうから結愛の声がした。先ほどの配信用の甘い声でも、スーパーでのドス黒い声でもない。どこか不安げで、ひどく心細そうな、元の『妹』の声だった。
「起きてるよ。どうしたの?」
僕がドアを開けると、そこにはパジャマ姿の結愛が立っていた。彼女の手にはホットミルクが注がれたマグカップが二つ握られている。
「……さっきはスーパーで変な態度とってごめん。ハンバーグも大きすぎたよね。これ……いっしょに飲も?」
結愛は上目遣いで僕を見上げながら、マグカップの一つを差し出してきた。彼女なりに嫉妬で暴走してしまった自分を反省し、関係を修復しようとしているのだ。停電の夜に自分の本音を晒して以来、彼女は僕に対して驚くほど素直に甘えるようになっていた。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いてたんだ」
僕がマグカップを受け取ると、結愛はホッとしたように表情を緩め、そのまま当たり前のように僕の部屋の中に入り、ベッドの縁に腰を下ろした。
「……ねえ、陸」
温かいミルクを一口飲んでから、結愛がぽつりと切り出した。
「白石さんって……陸のこと、好きなの?」
直球すぎる質問に僕は危うくミルクを吹き出しそうになった。
「ぶっ……! な、なんでそうなるんだよ! ただのクラスメイトだって」
「だって……あんな目で陸のこと見てたし。それに、陸もあの女と話してる時、なんか気を許してるっていうか……いつも家で私に見せる顔と違った」
結愛はマグカップを両手で包み込むように持ちながら、俯き加減で言葉を紡ぐ。
「私……陸が他の女の人と仲良くしてるの、すっごく嫌。……私ね、Pさんのこと本気で好きだし、いつか会って告白したいって思ってる。それは本当なの」
結愛の視線が僕の顔を真っ直ぐに射抜いた。
「でも、陸のことも……誰にも取られたくないの。陸の隣は私の指定席だもん。陸の服の匂いも、陸が作ってくれるご飯も、陸が頭を撫でてくれるのも、全部私だけのものじゃないと嫌だ」
矛盾している……。
ネットの男(P)に本気の恋をしながら、現実の兄(陸)に絶対的な独占欲を向けている。だが、その二つが実は『僕という一人の人間』に向かっているという事実が、この状況を果てしなく残酷で、そして甘美なものにしていた。
「結愛……」
「……だから、約束して」
結愛はマグカップをデスクに置くと、僕の前に立ち、僕のTシャツの裾をギュッと握りしめた。
「あのメガネ女には絶対に近づかないって。陸は私のお兄ちゃんで……私のものだって約束して……?」
涙目で懇願してくる義妹の姿。そのあまりにも強烈な執着と依存の念に、僕はもう逃げ場などどこにもないのだと悟らざるを得なかった。
「……わかった。約束するよ」
僕が小さく頷くと、結愛は「えへへ」と安心したような、幼い子供のような笑顔を浮かべ、そのまま僕の胸元にコテンと頭を預けてきた。
彼女の髪から香るシャンプーの匂いが、夜の静寂な部屋に甘く広がっていく。
結愛の体温を感じながら、僕はモニターの向こう側に広がる広大なインターネットの海と、明日学校で顔を合わせる白石みぞれの顔を思い浮かべていた。
コラボ配信の日は刻一刻と近づいている。この歪で脆い関係性が崩壊する日は、もうすぐそこまで来ているのかもしれなかった。




