第9話「急接近する距離とライバルの影」
あの落雷と停電の夜から、丸二日が経過した。
母親不在の閉ざされた密室での二人きりの生活も、ついに後半戦となる木曜日の朝を迎えている。
だが、我が家を満たしていた空気は、あの一夜を境にして完全に異質の成分へと変異してしまった。五年もの長きにわたって続いていた、触れれば手首が凍りつきそうな「絶対零度の冷戦状態」は終わりを告げた。その代わりに始まったのは、結愛による狂気的なまでの「お世話暴走」だった。
「陸、ちょっと待ちなさい」
二階から一階のリビングへ下りていくと、小走りに近づいてくる足音がした。
キッチンから飛び出してきた結愛は、フリルのついたエプロンを身につけ、その手には温かい湯気が立ち上る味噌汁のお椀と、綺麗な焦げ目のついた焼き鮭の小鉢が乗ったお盆をしっかりと握りしめていた。
「朝ごはん、もうできてるから。ちゃんと顔を洗ってから座りなさいよね。あ、それと……これ、今日の分のワイシャツ。皺一つないようにアイロンかけておいたから。あと、あんたの部屋の脱衣籠にあった洗濯物、全部私が洗って干しておいたからね。下着も含めて」
「え……下着も?」
僕が思わず問い返すと、結愛の白い頬が沸騰したヤカンのように一瞬で真っ赤に染め上がった。
「な、なにか文句あるわけ!? 妹が兄の洗濯物をまとめて洗ってあげて何が悪いのよ! 感謝しなさいよね! 別に……あんたの服の繊維についた匂いを心置きなく嗅げる口実ができるからとか、そういう不純な理由じゃないんだからっ!」
「……誰もそんなこと言ってないだろ」
顔を真っ赤にして早口でまくしたてる結愛の暴言は、以前のような、こちらの心を的確に抉ってくる刃物のような切れ味を完全に失っていた。むしろ、自分の巨大すぎる好意と依存心を必死に覆い隠すための、ただの不器用な照れ隠しにしか聞こえない。
『陸に嫌われるのが怖くて、自分から暴言を吐いて距離を置いていた』
停電の夜、暗闇の中で彼女が泣きじゃくりながら明かしたあの原点を知ってしまった今、僕には彼女のこの強がりが痛いほど愛おしくもあり、同時に背筋が凍るほど重く感じられた。
(服の匂いを嗅ぐために洗濯係を志願するって……理由が重すぎるだろ……)
食卓につくと、そこにはまるで高級旅館の朝食かと見紛うような、完璧な和定食が並んでいた。鰹と昆布の出汁からしっかりと取られた豆腐とワカメの味噌汁、ふっくらと焼き上げられた鮭、そして形良く巻かれた出汁巻き卵。
「……すごく美味しいな」
僕が一口食べてぽつりと呟くと、キッチンのカウンター越しにチラチラとこちらの様子を窺っていた結愛の顔が、パッと花が咲いたように明るく綻んだ。
「ほ、ほんと……? ふん、当然でしょ。あんたみたいなコンビニ弁当ばっかり食べてる味音痴に食べさせるには、食材が勿体ないくらいなんだから。……でも、どうしてもって言うなら、明日も作ってあげてもいいけど」
「ありがとう。すごく助かるよ」
「~っ! 感謝するなら一粒残さず全部食べなさいよね!」
背中を向けて洗い物を始める結愛だが、その肩が嬉しそうに揺れ、口元が緩んでいるのを僕は見逃さなかった。
冷酷な暴言が減り、甲斐甲斐しく僕の世話を焼くようになった義妹。外から見れば、なんとも平和で微笑ましい理想の兄妹の光景に見えるかもしれない。しかし僕は知っている。彼女が自分の部屋に戻れば、僕の靴下やパーカーの残り香を大事そうに吸い込み、そして夜になれば画面越しに『P』である僕へ向けて、純度百パーセントの狂気的な恋心を募らせているという事実を。
現実の兄(陸)への絶対的な安心と依存。そして、ネットのプロデューサー(P)への熱烈な「恋愛感情」。この二つの巨大な執着が、実は『陸』という同一人物に向かっているという歪な構造。それは、一歩間違えれば、彼女の精神はおろか僕の平穏な日常をも木端微塵に吹き飛ばす、極めて危険な時限爆弾だった。
朝食を終え、僕は自分の部屋へ戻ってデスクトップパソコンの電源を入れた。今日は高校が創立記念日で休校のため、日中の時間を丸々、星降ルナのプロデューサー業務と次回の企画考案に費やすことができる。
デュアルモニターの右画面でDiscordを開き、通知を確認した僕の指先がピタリと止まった。
星降ルナ宛てのビジネス用メールアドレスに、一通の重要な公式メールが届いていたのだ。送信元の名義を見て、僕は思わずモニターに顔を近づけた。
『大手VTuber事務所【ミリオンプロダクション】公式からのご連絡』
ミリオンプロダクション。業界最大手の一角であり、所属するVTuberは誰もが登録者数数十万人を誇り、企業案件や3Dライブをバンバンこなす、まさに雲の上の存在だ。
恐る恐るメールの本文を開くと、そこには僕の想像を遥かに超える驚くべき提案が記載されていた。
『星降ルナ様、ならびに運営プロデューサー様。突然のご連絡、誠に失礼いたします。ミリオンプロダクション所属VTuber【白雪みぞれ】のマネージメント担当でございます。先日、星降ルナ様が配信内でお見せになった高いトーク力と、非常に生々しく魅力的な演技力に、白雪みぞれ本人が大変感銘を受けておりました。つきましては、弊社所属の白雪みぞれとの「合同コラボ配信」をご提案したく、ご連絡いたしました』
「……マジかよ」
誰もいない部屋で思わず声が漏れた。
白雪みぞれといえば、登録者数五十万人を超えるミリオンプロダクションのトップVTuberの一人だ。可憐で透明感のあるビジュアルと、リスナーを翻弄する少し毒のある軽快なトークで、絶大な人気を誇っている。完全な新人個人勢である星降ルナにとって、白雪みぞれからの直々のコラボ指名など、千載一遇の大チャンス以外の何物でもない。これが実現すれば、ルナの知名度は一気に跳ね上がり、登録者数を数万人単位で爆発的に伸ばすことができるだろう。
しかし、僕の胸を激しくざわめかせたのは、そのチャンスの大きさだけではなかった。僕には、この世界で誰も知らないもう一つの重大な『秘密』があったのだ。
白雪みぞれの中の人──つまり、あの透明感のある声で何十万人ものリスナーを熱狂させている配信者の正体を僕は知っている。
なぜなら彼女は、僕の通う高校のクラスメイトであり、毎日僕の隣の席に座っている少女、『白石みぞれ』その人だからだ。
学校での白石は、少し度の強い黒縁メガネをかけ、休み時間はいつも文庫本を読んでいるような地味で大人しい女子生徒だ。だが裏では、業界最大手のトップVTuberとして君臨している。
偶然にも数ヶ月前、彼女が校舎の裏でスマホを使ってマネージャーと激しい打ち合わせをしている現場を目撃してしまい、お互いに秘密を守るという協定を結んだ。それ以来、僕たちは時折、誰にも聞こえない声で配信業界の裏話をする『オタク友達』のような奇妙な共犯関係を築いていた。
(白石が……ルナとコラボしたいだって……!?)
マウスを握る手にじわっと冷や汗が滲んできた。
白石みぞれは、僕がプロデューサーとして活動していることは一切知らない。単なる「配信の機材や知識に無駄に詳しいクラスメイト」として、たまに僕にアドバイスを求めてくる程度だ。
もし、このコラボが実現したらどうなる?
勘が鋭く、頭の回転が速い白石のことだ。星降ルナのバックにいる『有能なP』の存在に気づき、その手口や裏方の動きから、それが僕だと見抜いてしまうかもしれない。何より、星降ルナ(結愛)と白雪みぞれ(白石)が接触することで、僕の学校生活と複雑な家庭環境が、最悪の形で交錯し始めることになる。
僕はすぐにボイスチェンジャーアプリを起動し、マイクのテストを済ませてから、結愛にDiscordで通話をかけた。
「はーい! Pさん、おはようございます!」
ヘッドホンから飛び出してきたのは、先ほどまでキッチンでツンツンと強がっていたのとはまるで別人の、弾けるような甘い声だった。
「今日の夜の配信の準備、もうバッチリですよ! Pさんの指示通り、雑談の構成も練ってあります!」
「おはよう、ルナ。素晴らしい意気込みだね。実は……君にものすごい吉報が入ってきたんだ」
「吉報……? なんですか? またどこかの切り抜き動画がバズったとかですか?」
「いや、もっと大きい。ミリオンプロダクションの【白雪みぞれ】さんから、直々にコラボの打診が届いた」
「──えっ!?」
通話の向こうで、結愛が大きく息を呑む音がはっきりと聞こえた。
「し、白雪みぞれちゃん!? 登録者五十万人の、あのミリプロのみぞれちゃんですか……!? 嘘、嘘ですよね!?」
「本当だ。先日の君のシチュエーションボイス配信を見て、君の才能に目を留めてくれたらしい。どうかなルナ、受けてみないか?」
数秒の深い沈黙の後、結愛の声が極度の興奮と歓喜で微かに震え始めた。
「やります! やりたいです、Pさん! 私、みぞれちゃんの配信、デビューの時からずっと見てたんです! すごく憧れの人で……私なんかがコラボさせてもらえるなんて、夢みたいです!」
「よし分かった。では先方に受諾の返信を出しておくよ。相手のマネージャーと日程を調整して、来週あたりにコラボ配信を設定しよう」
「はいっ! ありがとうございます、Pさん! 私……私、Pさんが見つけてくれたこのチャンスを絶対に無駄にしません。もっともっと有名になって、Pさんに一番に認められるVTuberになります! だから……ずっと私だけを見ていてくださいね」
語尾にねっとりと絡みつく、とろけるような甘い執着。
「ああ、もちろん君を一番応援しているよ」と当たり障りのない言葉を返して通話を切ると、僕は深く息を吐き出し、背もたれに体を預けた。
結愛の憧れの存在である、トップVTuberの白雪みぞれ。だがその正体は、僕の隣の席に座るクラスメイト。そして何より僕の頭を悩ませているのは、白石みぞれもまた、学校で時折僕に見せる意味深な視線だった。
クラスで唯一、自分の誰にも言えない秘密(正体)を共有している僕に対して、彼女もまた、少なからず特別な感情──あるいは強い執着のようなものを抱いている節があったのだ。
(家庭内では義妹からのヤンデレ気味な依存……学校ではトップVTuberのクラスメイトとの秘密の共有……そこに、配信上のコラボが直接交わってくるのか)
僕は両手で頭を抱えた。もし、結愛が白雪みぞれと親しくなり、彼女が僕(陸)と仲が良いことを知ったら?もし、白石みぞれが星降ルナのPの正体に気づき、僕を巡って現実とバーチャルを股にかけた妙な対立構造が生まれてしまったら?
「……いや、考えすぎだ。あくまでビジネス上のコラボだ」
僕は自分に言い聞かせるように呟き、ミリオンプロダクションへの丁寧な受諾の返信メールを作成し始めた。プロデューサーとしての仕事は、感情を挟まずに完璧にこなさなければならない。結愛の夢を叶えるためにもこのコラボは何としても成功させる必要があった。
その日の夕方──
夕食の買い出しのために僕が財布を持ち、玄関に向かって靴を履いていると、リビングのドアがガチャリと開いた。
少しだけメイクをし、普段家では着ないようなお気に入りの私服に着替えた結愛が、どこかソワソワした様子で僕の顔を見上げてきた。
「ね、ねえ……陸」
「ん? なに? 冷蔵庫にないものでも買ってこようか」
「……買い出し、私もついていってあげてもいいけど」
「え? 外に出るの嫌がってただろ。日焼けするからとか言って」
「だ、誰のせいだと思ってるのよ! あんたが一人で重そうに荷物持ってるの見たら、ご近所さんに『妹に手伝わせない酷いお兄ちゃん』だと思われるでしょ! 私はあくまで、あんたの世間の評価を心配してあげてるの!」
相変わらずの、ムチャな言い訳がましいツンデレテンプレのようなセリフ。だが彼女の視線は泳いでおり、その目は「一緒に行きたい」とハッキリと訴えていた。停電の夜を経て、彼女は「嫌われるのが怖い」という呪縛から少しだけ解放され、今度は僕の隣にいるための口実を必死に探しているのだ。
「……そっか。じゃあお願いしようかな。今日は牛乳とか調味料も買うから、荷物重くなりそうだったし」
僕がわざとらしく笑って言うと、結愛はパッと表情を輝かせて小さくガッツポーズをした。
「ふ、ふん、感謝しなさいよね! じゃあ、戸締りするから先に出てて!」
嬉しそうに鍵を閉める結愛の姿を見ながら、僕は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じていた。家での過剰なお世話も、不器用な買い出しの誘いも、すべては僕への強烈な好意の裏返し。暴言に怯え、互いに干渉しないようにしていた以前の冷戦状態に比べれば、今の関係はずっと心地よいものに思えた。
だが、この時の僕はまだ知る由もなかったのだ。この買い出しの途中、近所の大型スーパーで、よりにもよって最悪のタイミングで、『彼女』と出くわしてしまうことを……。
スーパーの奥、ひんやりとした冷気が漂う生鮮食品売り場。カートを押す僕の隣で、結愛が「陸、このお肉安くなってる」「明日はハンバーグがいいから、挽肉と玉ねぎ買おうよ」と、まるで新婚夫婦のように楽しそうに食材を選んでいたまさにその時だった。
「──あれ? 天野くん?」
背後から掛けられた、聞き覚えのある涼やかな声。蛍光灯の光に照らされた通路で振り返った僕の視界に入ってきたのは、ラフな私服姿にいつもの黒縁メガネをかけたクラスメイト、白石みぞれの姿だった。
「白石……!?」
「奇遇だね。天野くんも夕飯の買い物? ……あっ」
白石のレンズの奥の視線が、僕の隣でカートの縁を握ったまま固まっている結愛へと向けられた。結愛もまた、突如現れた見知らぬ女子生徒──しかも、どこか僕と親しげな、秘密を共有している特有の空気を漂わせている白石を、冷たい氷のような瞳で睨みつけていた。
二人の少女の視線がスーパーの冷気の中で激しく激突する。鮮魚コーナーの前で、周囲の生活音が遠のいていくような凍りつくような沈黙が流れた。
「……陸、この人だれ?」
結愛の声から、一瞬にして『甲斐甲斐しい妹』の優しさが消え去った。
代わりに滲み出たのは、自分のテリトリーを侵された猛獣のような、冷酷で凶暴なヤンデレの気配。
僕の平穏な日常を崩壊させる鐘の音が、頭の中でけたたましく鳴り響いていた。




