第9話 時を止めたひと
道具は、作業机に全部そろっていた。
油差し。ウエス。ドライバー。ブラシ。五十年前に片付けられたままの配置で、まるで今日のために置かれていたようだった。カナタは上着を脱ぎ、日誌を机の上に開いた。
《手入れの順。一に埃、二に油。ネジは最後。急がないこと。》
祖母の字が、手順書になった。
埃を払う。歯車のあいだにブラシを通し、軸受けをウエスで拭く。《油は米粒ひとつぶん。差しすぎは埃を呼ぶ。》米粒ひとつぶん、と声に出して、カナタは油差しを傾けた。
作業は、思っていたより長くかかった。そして思っていたより、静かな時間だった。
手を動かしていると、この部屋で同じ作業をしていたふたりのことが、勝手に想像された。数字に強い若い女と、手先が神様みたいな職人。夕方の鐘を鳴らしてから、ふたりで油を差して、終わる頃に四時十七分。文字盤の裏の小窓から、通りを見下ろす。
一日でいちばん、いい時間。
カナタは手を止めて、その小窓を見た。西日が差し込んで、床に小さな四角を作っていた。五十年前と同じ角度で。
最後に、鞄から布の包みを出した。
心臓を、返す時間だった。
受け座に爪を合わせると、部品は吸い付くように収まった。
ねじをふたつ、締める。《ネジは最後。締めすぎないこと。》わかってる、とカナタは日誌に返事をした。手応えが止まったところで、力を抜く。
収まってしまえば、そこだけ五十年が経っていないように見えた。抜かれた痕も、戻された痕も、機構は覚えていない。ただ、カナタの手だけが覚えていた。ねじのなめらかさ。抜いた誰かが、戻す誰かのために油を残しておいたことを。
──抜いた、誰か。
手を拭きながら、カナタはずっと避けていた問いの前に、とうとう立った。
この部品を抜けるのは、機構を知り尽くした者だけだ。どのねじをどの順で外すか。どこを押さえれば歯車が暴れないか。日誌を書いた手なら、それができる。
そして、あの夜。ソウスケは朝まで喫茶店にいた。塔の鍵を持つ管理人が、よりによってその夜だけ、塔を離れて。
祖母だ。
時計を止めたのは、ソウスケじゃない。祖母だった。縁談が決まって、想いの終わりを言い渡しに行った夜。祖母は塔に上がり、ふたりでいちばん良い時間だった四時十七分に針を合わせて、心臓をひとつ抜いた。時間ごと、そこに置いていくために。
そしてソウスケは、知っていた。
たぶん、全部。だからあの晩、店にいた。ハルがひとりで塔とお別れをする時間を、見ないでいてやった。だから五十年、止まった時計を誰にも直させなかった。あれは失恋の男の意固地じゃない。あの針は、ふたりの墓標じゃなくて──約束の、しおりだった。
祖母が時を止めたんじゃない。
祖母は、いちばんいい時間に、しるしを挟んだだけだ。いつか誰かが、続きを読むまで。
カナタは油で汚れた手の甲で、目元を拭った。
錘を巻くのは、力仕事だった。
ハンドルを差し込み、回す。一回転ごとに、鎖が巻き上がって錘がわずかに浮く。《ネジ巻き、五十二回転。》カナタは声に出して数えた。十。二十。腕が重くなる。三十。四十。祖母はこれを、何年も続けていたのか。五十。五十一。五十二。
ハンドルを抜く。
残るのは、振り子だけだった。
垂直に垂れて五十年眠っていた振り子に、カナタは手を添えた。少し持ち上げて、手を離せばいい。それだけで、始まる。それだけのことを、五十年、誰もしなかった。できる者が、しなかった。
「……お祖母ちゃん」
呼びかけて、あとの言葉は出てこなかった。代わりに、手を離した。
振り子が、揺れた。
こつ、と最初の音がした。ガンギの爪が、歯をひとつ受け止めた音。それから、こつ、こつ、と続いた。ためらうような間隔が、少しずつ確かになっていく。歯車が目を覚まし、軸が回り、機構の全体がゆっくりと呼吸を始めた。
五十年ぶりに、塔の中を時間が流れ出した。
カナタは床に座り込んで、その音をずっと聞いていた。時計の音というより、大きな生き物の寝息のようだった。文字盤の裏で、針の軸が、目に見えない速さで動いている。四時十七分は、もう過去に流れ始めている。
鐘は、鳴らなかった。
日誌にある。《鐘は正時のみ。》次の正時に、鐘を打つ小槌が持ち上がり、落ちる。カナタは携帯で時刻を確かめた。深夜には正時が来るが、この町の夜中に五十年ぶりの鐘はきっと騒ぎになる——いや。
カナタは機構の脇の小さなレバーを見つけた。《夜間は鐘止めを掛けること。近所迷惑。》祖母の字が、ちゃんと教えてくれた。レバーを掛ける。
「明日の朝、外すよ」
誰にともなく言って、カナタは塔を下りた。門に鍵をかけ、見上げる。月明かりの下で、長針が、確かにさっきと違う場所にいた。




