第10話 五十年目の鐘
夜明け前に、カナタは塔にいた。
螺旋階段を上り、機械室の窓が白んでいくのを待つ。機構は一晩、休まず時を刻んでいた。こつ、こつ、という寝息のような音にも、もう耳が馴染んでいる。
六時の少し前、カナタは鐘止めのレバーを外した。
それから、文字盤の裏の小窓を開けた。ふたりがいちばん好きだった場所から、明けていく商店街を見下ろす。シャッターはまだほとんど閉まっていて、パン屋にだけ灯りが入っている。
針が、六時を指した。
機構の奥で何かが持ち上がる気配がして、一拍の間があって——鐘が、鳴った。
骨まで届く音だった。一打目が商店街の屋根を渡り、二打目が重なって、余韻が波のように広がっていく。三打。四打。カナタは小窓の縁を握った。五打。六打。
余韻が消えたあとの通りに、人が出てきた。
パン屋の女将が、前掛けのまま空を見上げていた。二階の窓が開き、寝間着の男が身を乗り出す。犬の散歩の老人が立ち止まり、振り返り、それから帽子を取った。誰かが誰かを呼ぶ声がした。青果店の老婦人が小走りに出てきて、塔を見上げたまま、動かなくなった。遠目にも、手で口を覆っているのがわかった。
通りの角、喫茶店の前に、白髪の老人が立っていた。
トキジは塔を見上げず、まっすぐこちらの小窓を見ていた。まるで、そこに誰がいるか最初から知っていたように。老人は何も言わず、深く、一度だけ頷いた。
「六時ちょうどに外すあたり、ハルさんの孫だよ」
喫茶店のカウンターで、トキジはそう言って笑った。今朝の商店街はその話でもちきりで、店にも入れ替わり客が来ては、鐘の話をして出ていった。カナタは客が途切れるのを待って、聞いた。
「鍵を門の前に置いたのは、トキジさんですね」
老人は否定しなかった。布巾でカップを拭きながら、静かに話した。
「宗介が死ぬ半年前だ。店に来てな、これを預かってくれと。自分が死んだら鍵は町のものになる。そうしたら役場の倉庫で眠るか、解体屋の手に渡るか、どっちかだと。……だから、条件をつけた」
「条件」
「《ハルの縁の者が、あの塔を毎日見上げるようになったら、渡してくれ》とな。わしは笑ったよ。そんな日が来るもんかと」
トキジはカップを置き、窓の外の塔を見た。
「ところが去年あたりから、夜勤明けの若いのが、毎朝あそこで塔を見上げとる。顔を見りゃ、誰の血か一目でわかる。……あとはまあ、置いただけだ。拾うかどうかは、あんた次第だった」
磨かれた鍵。五十年の埃がなかった理由も、これでわかった。
昼過ぎ、カナタは北の丘に上った。ソウスケの墓は、丘の中腹の、小さな墓地にあった。石は古いが、掃除されている。トキジが通っているのだろう。
墓石の前にしゃがみ、カナタは鞄から封筒を出した。
《宗介さんへ》
封は、切らなかった。五十年前の言葉は、ふたりのものだ。カナタは封筒を墓石の前にそっと置き、その上に、日誌の頁から出てきた乾いた花を載せた。
「……時計、動かしました。勝手にすみません」
それだけ言って、手を合わせた。丘の上は風が通り、町がよく見えた。商店街の屋根の並びから、塔がまっすぐに立ち上がっている。
ここまで、鐘は届く。日誌の一行を思い出した。今日は風向きもいい。
夕方の商店会の寄り合いは、いつになく人が集まったらしい。
カナタは会員ではないから外で待った。終わって出てきた青果店の主人が、カナタを見つけて手招きした。
「解体の話は流れたよ。動いてる時計を壊す馬鹿はいない、って会長がさ。……で、あんたの話になった」
「私の、ですか」
「鍵を持ってて、直せて、毎日見に来られるやつ。管理人、やる気はあるかい。手当なんて雀の涙だけど」
カナタは、返事の代わりに笑ってしまった。断る理由を、ひとつも思いつけなかった。
夜勤の前に、カナタは塔に上った。
作業机の上を片付け、祖母の日誌をいちばん上の抽斗に仕舞う。代わりに、駅前の文具屋で買ってきた新しい帳面を開いた。無地の表紙。最初の頁。
何を書くべきか、しばらく考えて、結局いちばん簡単なことにした。
《晴。鐘止めを外す。六時、五十年ぶりの鐘。北の丘まで届いたはず。》
書いてから、祖母の字と自分の字が少しも似ていないことに気づいて、なぜか安心した。これは続きだけれど、真似ではない。
窓の外で、光が傾き始めていた。
カナタは小窓を開け、通りを見下ろした。夕方の買い物客。自転車のベル。焼き鳥の煙。文字盤の裏で、針の軸が静かに回っている。
四時十七分。
針は、その時刻にほんの一瞬だけ触れて、止まらずに、過ぎた。
カナタは目を閉じて、機構の音を聞いた。こつ、こつ。祖母としおりを挟んだ人の、続きの頁を、時計はもう読み始めている。
明日も、ネジを巻こう。五十二回転。急がないこと。
実は、小説としてはこれが初めての投稿でした。
祖母の遺したレシピカードの字のように、誰かの手入れの記録は、それだけで小さな手紙なのかもしれません。
この物語が、あなたの町のどこかで止まっているものを、ひとつ思い出させたなら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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