第8話 星から開く箱
実家の玄関は、記憶より少し狭く見えた。
「顔くらい、たまに見せなさいよ」
言いながら母が出してくれた麦茶を、カナタは立ったまま半分飲んだ。仏間の隣、納戸の引き戸はもう開いていた。母が先に出しておいてくれたらしく、畳の上に段ボールがふたつと、見覚えのある茶箱がひとつ。
祖母の遺品箱だった。
蓋を開けると、樟脳の匂いがした。畳まれた着物。帯。写真の束。母が横から覗き込む。
「お祖母ちゃんの若い頃の写真もあるわよ。ほら」
差し出された一枚を、カナタは受け取った。白黒の、商店街の写真。若い女が三人並んで笑っていて、その真ん中が祖母だと、言われる前にわかった。目元が、鏡で見る自分の目元だった。
そして写真の背景、通りの奥に、時計台が写っていた。
針は読めない。けれど、この頃はまだ動いていたはずだ。祖母がまだ、塔の階段を上っていた頃。
「……この写真、もらっていい?」
「いいわよ、そんなの」
母は笑って、また段ボールのほうへ向き直った。カナタは写真を胸ポケットに入れ、箱の底へ手を伸ばした。
指先が、木の角に触れた。
着物の下から出てきたのは、掌に載るほどの木の小箱だった。飴色に艶の出た蓋。その中央に、彫りがある。
歯車が三枚、重なった紋。
縁側の光の下で、カナタは小箱を膝に載せた。
母は台所に立っていて、部屋にはカナタひとりだった。あらためて見る蓋の紋は、塔の受け座の刻印と同じ意匠で、ただひとつだけ違いがあった。
三枚の歯車が重なる中心に、小さな星形の飾りが嵌め込まれている。
真鍮らしい、五つ角の星。飾り釘のようにも見える。鍵にも、錠前にも、受け座にもなかったもの。この箱にだけ、星がある。
《箱は星から開ける》
カナタは息を整えた。指の腹を星に当てる。押す。動かない。もう少し強く。かすかに、沈む感触。
沈めたまま、回してみた。
右には回らない。左に──回った。
小さな、けれどはっきりした音が、箱の中で鳴った。かちり。ばねの外れる音。蓋と身の継ぎ目だと思っていた飴色の線が、髪の毛ほどの隙間になっていた。
開く。
カナタはすぐには開けなかった。台所の水音を遠くに聞きながら、膝の上の箱を見下ろした。祖母が閉じて、誰にも開け方を言わなかった箱だ。開け方は日誌の余白に、鉛筆の走り書きでだけ残されていた。つまり祖母は、日誌を読む誰かにだけ、これを託した。
塔の日誌を読むのは、塔に入れる者だけ。塔に入れるのは、鍵を持つ者だけ。
──ずいぶん、遠回りな宛先だ。
カナタは指をかけ、蓋を開けた。
箱の中には、ふたつのものが入っていた。
ひとつは、柔らかい布の包み。開くと、金属の小さな部品が出てきた。爪の並んだ、扇形の金具。ねじ穴がふたつ。受け座ごと抜き取られた、ガンギ車の爪。五十年、時計の心臓はここにあった。祖母の箱の中に。
油を差されていたのだろう、部品は錆びていなかった。いつでも戻せるように、と思わずにはいられない状態で、布にくるまれて眠っていた。
もうひとつは、封筒だった。
宛名だけが、表に書かれている。《宗介さんへ》。祖母の字。切手はなく、住所もなく、封は糊で閉じられたまま、端が飴色に灼けていた。
未投函のまま、五十年。いや──宛先を思えば、投函できるはずのない手紙だ。同じ町の、歩いて行ける塔にいる人への手紙を、祖母は書いて、封をして、部品と一緒に箱に沈めた。
カナタは封筒を光に透かしそうになって、やめた。
これは自分に宛てられたものではない。箱の開け方は託されたけれど、この封を切る権利まで渡されたとは思えなかった。読んでいいのは、宛名の人だけだ。その人はもういない。なら、この手紙は──届けるだけだ。読まれなくても、届くということはある気がした。
「カナタ、夕飯食べていくんでしょう」
台所から母の声がした。
「食べてく」
返事をして、カナタは部品と封筒を箱に戻し、蓋を閉めた。かちり、と星が鳴った。
帰りの電車で、鞄の中の小箱は、重さのわりに確かな存在感で膝の上にあった。明日。明日、心臓を返しに行く。




