第7話 抜かれた心臓
昼の塔は、夜とは別の場所だった。
高窓から光が斜めに差し込んで、機械室の埃を金色に浮かべている。カナタは今日、はじめて明るいところで機構の全体を見た。人の背丈ほどの歯車が三枚。その脇に中くらいのが数枚、小さいのが無数。振り子。錘。鎖。すべてが、止まったままの精密さで噛み合っている。
鞄から日誌を出す。
祖母の記録は、読み方を覚えれば図面のようなものだった。《三番歯車、音消える》《ガンギの油、差しすぎに注意》。カナタは記録の言葉と目の前の部品を、ひとつずつ突き合わせていった。これが一番。これが三番。この小さな、爪の並んだ輪が──ガンギ車。
振り子の頭のところで、機構の刻みを受け止めるはずの輪。
日誌には、こうあった。《ガンギは時計の心臓。ここが刻まなければ、すべては回らない。》
カナタは顔を近づけた。
爪の並びに、一箇所だけ欠けがある。
最初は、折れたのだと思った。五十年も止まっていた機械だ。どこかが壊れていて当然だと。けれど、欠けの断面を見て、その考えは止まった。
断面が、きれいすぎる。
夕方の光の中で、カナタは工具箱から借りた小さな鏡を使い、ガンギ車の欠けた箇所を裏側から覗いた。
折れたのではなかった。
爪は、根元の受け座ごと外されていた。ねじ止めの部品で、ねじ穴には錆がなく、周囲にだけ薄く油が残っている。壊れた機械の傷ではない。手入れをする者の手つきで、丁寧に、抜き取られている。
心臓の部品を、ひとつだけ。
これでは動かない。どれだけ錘を巻いても、振り子を揺らしても、時計は時を刻めない。逆に言えば──この爪さえ戻れば。
カナタは受け座の金具に顔を寄せた。小さな刻印がある。埃を息で払う。
歯車が三枚、重なった紋。
鍵の柄と同じ。正面の錠前と同じ。時計塔の紋。それがこんな機構の奥、覗き込まなければ見えない場所にまで、律儀に刻まれている。職人の仕事だと思った。誰にも見えないところまで、同じ印を打つ。
そして、その紋を見つめているうちに、カナタの記憶の底で何かが動いた。
同じ紋を、塔の外で見たことがある。
鍵でも、錠前でもなく。もっと小さく、もっと古い、木の蓋の上で。
──実家の納戸。祖母の遺品箱。その中にあった、掌に載るほどの木の小箱。継ぎ目も鍵穴もなく、誰にも開けられなかったから「開かずの箱」と呼ばれて、そのまま仕舞われた箱。あの蓋に、この紋が彫られていなかったか。
《箱は星から開ける》
日誌の余白の走り書きが、意味を持って立ち上がった。
アパートに戻ると、カナタは夕飯より先に電話をかけた。
三回のコールで母が出た。夜のニュースの音が後ろで鳴っている。
「珍しいね、どうしたの」
「うん。……ちょっと聞きたいことがあって。お祖母ちゃんの遺品箱って、まだ納戸にある?」
電話の向こうで、短い間があった。
「あると思うけど。……あんた、なんで急に」
「ちょっと調べものがあって。中に、木の小箱があったよね。開かないやつ」
「ああ、あの開かずの箱」母は少し笑った。「あるんじゃない、箱ごと。そういえばこの前、納戸を片付けようって話になってね。あの箱もそろそろ処分しようかって、お父さんと」
「捨てないで」
自分でも驚くほど、強い声が出た。母が黙る。カナタは咳払いをして、声を整えた。
「……明日、そっちに行く。箱、見せてほしい」
「いいけど。あんた、ほんとにどうしたの」
どう答えるべきか、少しだけ考えた。時計台の話をすれば長くなる。祖母の日誌の話をすれば、もっと長くなる。カナタはいちばん短い本当を選んだ。
「お祖母ちゃんのことで、確かめたいことがあるんだ」
電話を切って、カナタは机の上の日誌を見た。
《箱は星から開ける》
星がどこにあるのかは、明日、蓋の紋を見ればわかる気がした。歯車三枚の紋。あの重なりの中心に、何があったか。思い出そうとして、やめた。
明日、この目で見る。




