第6話 喫茶店の古老
喫茶店の扉は、鈴の音で開いた。
商店街の外れ、時計台がいちばんよく見える角にあるその店を、カナタは何百回も素通りしてきた。琥珀色のガラス。日に焼けたメニュー。カウンターの奥に、白髪を短く刈った老人がひとり。客はいなかった。
「いらっしゃい」
声は低く、乾いていた。カナタは窓際ではなく、カウンターに座った。コーヒーを頼み、出てくるまでの沈黙を、壁の写真を眺めて過ごした。古い商店街の白黒写真。アーケードがまだない頃の通り。その真ん中に、時計台が写っていた。針は読めないが、たぶん動いていた頃のものだ。
カップが置かれた。
「……あの写真の頃から、この店を?」
「先代からな。わしで二代目だ。トキジ、と呼ばれとる」
カナタは一口飲んだ。苦い。でも、悪くない苦さだった。切り出し方を、ここへ来る道々ずっと考えていた。結局、まっすぐ行くことにした。
「ハルという人を、ご存じですか。……私の、祖母です」
カウンターの中の音が、止まった。
トキジは布巾を持ったまま、カナタの顔をはじめて正面から見た。長い視線だった。眉のあたり、鼻筋のあたりを、順に確かめるような。
「──道理で」
やがて老人は、そう言った。
「入ってきたときから、誰かに似とると思っとった」
トキジは自分のぶんのコーヒーを淹れて、カウンターの内側の丸椅子に腰を下ろした。
「ハルさんとは、同い年でな。この通りで一緒に育った。もうひとり、宗介というのがいた。三人でよくつるんだもんだ」
「そうすけ」
「時計屋の倅よ。手先が神様みたいな男でな。十五で親父の仕事をぜんぶ盗んで、二十歳で塔の時計を任された。町が塔の管理人に据えたんだ。あいつ以外に、あの機械を触れる者がおらんかった」
カナタの手の中で、カップが少し冷えた。管理人。死んで、鍵が消えた、あの管理人。名前が、いま初めて輪郭を持った。
「祖母は……その人と、時計の世話を?」
「知っとったか」トキジは目を細めた。「ハルさんは字と数字に強かった。宗介は腕はいいが、記録つけるのが大の苦手でな。それでハルさんが日誌を引き受けた。手入れの日は、ふたりで塔に上っとった。夕方の四時の鐘を鳴らしてから、点検してな。終わる頃にはだいたい──」
「四時十七分」
先に言ってしまってから、カナタは口を押さえた。トキジは驚かなかった。ただ、ゆっくり頷いた。
「点検が終わると、ふたりで文字盤の裏の小窓から通りを見下ろすんだと。宗介が一度だけ、酔って話したことがある。あの十七分が、一日でいちばんいい時間だと」
そこまで言って、老人は湯気の消えたコーヒーを見下ろした。
「ハルさんの家は、この辺の地主でな。時計屋の倅とじゃ、釣り合わんと言われた時代だ。縁談が決まって、ハルさんは通りの向こうの人になった。宗介は──それから死ぬまで、止まった塔に通い続けたよ。毎日な」
止まった時計を抱えたまま三十年、というのは、そういう意味だった。
「時計が止まった夜のことを、聞いてもいいですか」
カナタが言うと、トキジは長く息を吐いた。
「妙な夜だった。それだけは言える」
「妙、というのは」
「あの晩、宗介はここにおったんだ。この店のカウンターで、閉店まで飲んどった。珍しいこともあるもんだと思ったよ。あいつが塔を離れて長居するなんて、年に一度もない」
トキジはカウンターの一点を見た。五十年前、そこに宗介が座っていたのだろう。
「日付が変わっても帰らんで、明け方近くにようやく腰を上げた。それで──朝になったら、時計が止まっとった。四時十七分でな」
「……ソウスケさんは、塔にいなかった」
「おらんかった。少なくとも四時までは、ここにおった」
では、誰が止めた。
問いは声にならなかったが、店の中に置かれたのがわかった。トキジも答えを口にしなかった。ただ、わかっているのかもしれない、と思わせる沈黙だった。
「宗介はな、止まった時計を直さなかったんじゃない。直させなかったんだ。町が業者を呼ぼうとするたび、自分の目が黒いうちはならん、と突っぱねてな。変わり者で通ったよ。最後まで」
カナタは、膝の上の鞄に手を置いた。中には日誌が入っている。出すべきか、まだ決められなかった。
帰り際、勘定を払うカナタに、トキジは背を向けて洗い物をしながら言った。
「──鍵は、ちゃんと役に立っとるか」
手が、止まった。
振り返ったときには、老人はもう何事もなかったように蛇口を締めていた。鈴を鳴らして店を出るまで、それ以上の言葉はなかった。




