第5話 途切れた最後の頁
読み方が、昨日までとは変わった。
手入れの記録として読んでいた頁を、カナタは祖母の日々として読み直していた。油差し。ネジ巻き。五十二回転。その一行一行の向こうに、若い祖母が塔の階段を上る足音を聞こうとした。
すると、見えてくるものが変わった。
《晴。三番歯車、音消える。Sの調整は正しかった。》
S。
一度気づくと、その文字は思いのほか頻繁に現れた。
《Sが文字盤の塗料を取り寄せてくれた。海の色に近い青。》
《雨。今日は塔に行けず。Sがひとりで錘を巻いたはず。五十二回転、間違えていないといいけれど。》
《今日、Sが笑った。珍しいこともある。》
カナタはそこで頁をめくる手を止めて、しばらく天井を見た。
祖母はひとりで塔にいたのではない。Sという誰かと、ふたりで時計の世話をしていた。ネジ巻きの回数を心配し、塗料の色を選び、笑ったことを書き留めるような距離で。
Sの調整。Sが笑った。
管理人が死んで、鍵も消えた──金物屋の老人の声が、急に別の重さで思い出された。
管理人の名前を、カナタはまだ知らない。
最後の頁に辿り着いたのは、昼を過ぎたころだった。
日付は、五十年前の秋。老人の言った「止まった夜」と、同じ季節。
その頁だけ、字が違って見えた。同じ祖母の字なのに、行儀のよい罫線への載り方が崩れて、インクの濃淡が波打っている。急いで書いたのでも、泣きながら書いたのでもなく──決めながら書いた字、という気がした。
《晴。文字盤を拭く。青は今日もきれいだった。》
《縁談の日取りが決まった。父はもう変えないだろう。》
カナタは息を止めた。縁談。祖父の顔が浮かぶ。仏壇の写真でしか知らない、カナタが生まれる前に死んだ人。
《Sには今夜言う。言わなければならない。》
《今夜、決める。四時十七分に。》
そこで、途切れていた。
次の行はない。次の頁も、ない。綴じの根元に、細く紙の耳だけが残っていた。一枚、破り取られている。その次の頁からは、もう何も書かれていない白い紙が、最後まで続いているだけだった。
四時十七分。
塔の針が五十年指し続けている時刻が、祖母の字で、そこにあった。
カナタは日誌を持ったまま、長いこと動かなかった。窓の外を車が通る。誰かの自転車のベルが鳴る。今日の商店街の音の下に、五十年前の夜が、破られた一枚ぶんだけ欠けたまま横たわっていた。
夜、カナタは母に電話をかけようとして、やめた。
代わりに、記憶を掘った。祖母について、家の中で語られたことは多くない。けれど一度だけ、母が台所でこぼしたことがあった。あれはカナタが高校生のころ、祖母が病院に入ったばかりの時期だ。
──あんたのお祖母ちゃんね、若い頃、ひと晩だけいなくなったことがあるんだって。
母は笑い話のように言った。曾祖父が近所中を探し回って、朝方にひょっこり帰ってきて、どこで何をしていたのか、死ぬまで一度も言わなかったのよ。頑固なんだから、と。
ひと晩だけ。
そのときは聞き流した話が、いま、日誌の最後の頁とぴったり重なった。今夜、決める。四時十七分に。祖母はその夜、家を出た。そして時計は、その時刻で止まった。
偶然であるはずがなかった。
祖母はあの夜、塔にいた。四時十七分に、塔で何かを決めた。そして戻ってきて、縁談どおり嫁いで、母を産んで、カナタを育てて、台所の人として死んだ。塔のことは、一度も話さないまま。
破られた頁だけが、その夜を知っている。
カナタはもう一度、最後の頁を開いた。何か見落としがないか、罫線の外まで目を這わせる。
あった。
頁の隅、余白に、鉛筆の薄い字。インクの記録とは別の、あとから書き足されたような走り書き。
《箱は星から開ける》
箱。カナタには、まだ何のことかわからなかった。わからないまま、その一行を、忘れないように何度も指でなぞった。




