第3話 螺旋階段の上
昼の商店街は、思ったより人が多かった。
カナタは門の前まで来て、足を止めた。時計台の下に、スーツと作業服の男たちが五、六人。図面らしき紙を広げ、塔を見上げては何か書き込んでいる。前掛け姿の青果店の主人もいた。商店会の腕章。
──解体の、下見。
ポケットの中で鍵を握ったまま、カナタは通りの反対側の日陰に立った。男のひとりが門の錆びた鎖を持ち上げ、緩んだ様子を確かめて手を離す。鎖が門に当たって、乾いた音を立てた。
「基礎はまだしっかりしてますよ」
「でも中は見られないんでしょう。鍵がないんじゃ」
「壊すのに鍵は要りませんから」
笑い声。カナタは目を伏せた。
壊すのに、鍵は要らない。それはそうだ。開けるためにだけ、鍵は要る。
男たちは三十分ほどで引き上げていった。それでも通りには人目があり、堂々と門に鍵を差し込める空気ではなかった。カナタは喫茶店の古びた看板の前を通り過ぎ、一度家に戻った。
窓の外がゆっくり暮れていくのを、畳に寝転んで待った。天井を見ながら、頭の中で何度も門を開けた。眠気は来なかった。夜勤で慣れた身体は、夜が近づくほど目が冴えていく。
今夜だ。誰もいなくなってから。
それは忍び込みという言葉が正しいのだろうかと、ふと思う。ポケットには塔の鍵がある。だがカナタは塔の何者でもない。まだ。
日付が変わる少し前、商店街のアーケードは灯りを落としていた。
自分の足音だけが響く。時計台の前で立ち止まり、カナタは一度だけ左右を見た。誰もいない。街灯と、月と、止まった針。
鍵を差し込む。
五十年ぶんの渋さがあった。回らない。カナタは息を吐き、力を抜いて、少しずつ左右に揺らした。金物屋の油の匂いを思い出す。じわり、と手応えが変わり、次の瞬間、重い音を立てて錠が開いた。
心臓が鳴っていた。
鎖を外し、門を押す。蝶番が軋んで、人ひとりぶんの隙間ができた。カナタは身体を差し入れ、内側から門を閉めた。
塔の中は、外より濃い闇だった。携帯の明かりを点ける。裏口から覗いた機械の底が正面からも見え、その脇に、上へ続く螺旋階段が浮かび上がった。鉄の段は埃をかぶっていたが、崩れてはいない。
一段目に足を載せる。軋み。二段目。三段目。
上るにつれて、空気が変わった。埃と、古い油と、それから木の匂い。誰かが長くいた場所の匂いだと思った。階段は塔の内壁に沿ってゆっくり回り、カナタの明かりが壁の煉瓦をひとつずつ照らしては手放していく。
窓が一つ。月明かりが床に四角く落ちていた。
その先に、扉のない入口があった。
機械室は、思っていたより静かで、思っていたより広かった。
部屋の中央に、大時計の機構が鎮座していた。人の背丈より大きな歯車が数枚、噛み合ったまま止まっている。振り子は垂直に垂れ、鎖の先の錘は床近くまで下りきっていた。すべての金属が薄い埃をまとい、それでも月明かりの下で鈍く光った。
壊れている、という感じがしなかった。
眠っている、のほうが近い。
カナタは機構の周りをゆっくり一周した。文字盤の裏側が正面の壁で、針の軸が機構から壁へと伸びている。あの軸の先が、四時十七分。五十年、この部屋はあの時刻を抱えたまま閉じていた。
壁際に、作業机があった。
木の天板。並んだ工具。小さな油差し。どれも几帳面に置かれている。散らかしたまま出ていった部屋ではない。片付けて、鍵をかけて、出ていった部屋だ。
机の端に、厚い帳面があった。
布の表紙は埃で灰色になっていた。カナタは指先で埃を払い、そっと開いた。細かい字が、頁の罫線に行儀よく載っている。日付、天気、それから短い記録。油差し。振り子調整。ネジ巻き、五十二回転。
手入れの日誌だ。この時計の。
頁をめくる指が、途中で止まった。字の癖に、妙な既視感があった。「時」の字の、最後のはねの伸びかた。どこかで、何度も見た字だ。
思い出せないまま、カナタは日誌を閉じ、胸に抱えた。借りるだけだ、と誰にともなく言い訳をする。
塔を出て、門に鍵をかけた。振り仰ぐと、針は変わらず四時十七分のままで、けれど今夜はそれが、置き去りにされた時刻ではなく、しまわれた時刻のように見えた。




